リブクラ / pixiv ※暴力表現あり
硬い肉を殴る音がひっきりなしに響いている。最初こそびくびく怖じ気づいていた彼ではあったが、今はもう耳が慣れきってしまって、ただその暴力が自分に向かないように、静かに震えていることしかできなかった。もはやこのやりとりが五回も超えれば、心も麻痺してくる。しばらくすれば蹴っている人間の方が疲れてくるのだ。
そして今回もまた、そうだった。
「っくそ、ふー、……もういい加減、吐いてくれませんかねえ、トゥエスティ局長」
額を伝う汗を拭い、その男は——極少人数で行動していた彼らを襲った集団の頭目は、椅子に縛り付けられているWRO局長に目線を遣った。要注意リストには上がっていなかった顔だ。だからこそ、この男が何かを企てているなんてことはわからなかったし、この地域でWROに敵意をもつ集団を作り上げているとの情報も入ってこなかった。
勿論リストに上がっていようが上がっていまいが、護衛がつかないことなどない。ただ今回は、脅威は少ないと判断され、新兵を含むごく少数の護衛だけだった。そしてそれが仇となった。
結果、物量で負けた彼と彼を含む皆は手練れの武装集団に捕らわれ、廃墟になった小さな街の家に閉じこめられている。家の中には、すでに虫の息の先輩の隊員が一人、彼と同じように縛られて転がされている気絶した「ストック」が一人、そしてリーブとあともう一人。向こう側の人員は、頭目と中の見張り、そして外にも敵が少なくとも十人はいる。
数の上でも、また武力の上でも絶望的な状況だった。
「吐け、と言われましても」
後ろ手に縛られ、更に立ち上がれないように古ぼけた椅子に縛り付けられたリーブはしかし、この状況に恐ろしくそぐわない穏やかな声で言った。
「存じ上げないものは、お伝えしようがないのですが」
「はぁー? アンタWROのトップだろ。知らないものなんてないだろ、フツー」
「ははは」
リーブのあげた笑声に、彼は思わず息を呑んだ。
(笑った)
このいつ命を奪われてもおかしくない状況において、いつもの会議や打ち合わせで見せるような笑顔を、頭目の男に向けている。仲間を安心させようとか、相手をなだめようとか、そういった意図は見えない。純粋に笑っている。男の言動を面白がっているのだ。
(化け物かこの人……)
渦中にない彼ですら、心の中は絶望にまみれているというのに、なおこの状況で笑っていられる余裕を持つリーブを、彼は同じ人間だとは思えなかった。
「私のことを探偵か何かだと思っていませんか」「似たようなモンだろ。それにもう調べは付いてんだよ」
「調べですか」
「そうだ、あんたとあのバカ社長が繋がってるって調べがな!」
悪意が詰め込まれた怒号に思わず竦んだが、一方のリーブはその穏やかな態度を崩さない。怯みもしないし怯えもせず、ただ悠然と笑顔を浮かべているのが、彼にとっては頼もしさよりも不気味さが勝った。
元神羅の重役ともなれば潜った場数が違うのかもしれない。しかし、こんな状況に置かれてもなお、恐怖の一つも見せずに座っていられるのは、感情というものがないのではないかとさえ思える。
彼の畏怖を知ってか知らずか、リーブは笑顔にわずかな苦笑を混ぜて言った。
「うーん、百歩譲って、私がルーファウス社長と何らかの繋がりを持っているとしましょう。ですが、ルーファウス社長の個人的な連絡先や居場所まで、把握していると思っているなら、あなた相当楽天的ですよ」
「うるっせえ!」
再度男が叫び、足下に転がっているものを蹴った。蹴り飛ばされたそれはごろごろと、彼の足下まで転がってくる。
「いい加減にしねえと、あんたの飼い犬蹴り殺しちまうぞ」
その言葉に、彼は足下に転がってきたそれを思わず見やった。
——それは身動きがとれないように縛られた人間だった。見えている部分はほぼ全て、蹴られたせいで赤黒い痣に覆われている。げほげほと痰が絡んだ咳とともに、その口から汚れた床に零れていくのは紛れもない血だ。うっすらと開いている青い瞳は朦朧としていて、どこを見ているのか、そもそも見えているのかさえわからない。
「クラウドさん——」
彼は思わず、その名前を呼んだ。ほとんど彼のせいで捕まったようなものだったからだ。クラウドはわずかに目を開け、彼を見上げたあと、安心させるように僅かに笑い、また力なく瞑る。げほ、という嫌な音の混じった咳と一緒に、その口から赤黒い血がまた床にこぼれた。
戦役の英雄でかつての仲間だと、初任務の前にリーブは言っていた。しかしその仲間がここまで痛めつけられてもなお、リーブの笑顔は一分の隙も見せない。ひびや軋みすら入らない。
リーブがいったい何を感じて、そして何を思っているのか、彼にはもはや見当も付かなかった。そして、それは頭目も同じようだった。
「綺麗な金髪だしな、あんたみてえな物好きの金持ちに売れるかと思って取っといてはいるが、この俺ももうそろそろ我慢の限界だ。いいか、次にもっとましな答えが聞けなかったら、そこの犬と兵隊は、あんたの目の前で死体になるぞ」
「死体がいくつ増えても、私が知らないことは教えようがありませんよ。それに、あなたにその子を殺せるとは微塵も思ってはいません」
「あ?」
驚くべきことに、リーブの笑みは今にいたって、なおも深くなっている。凄みを利かせ、今にも爆発しそうな凶暴な男を前にしても、リーブの態度は変わらない。
——それがかえって、怖い。この場で彼やクラウドが死んだとしても、その表情は変わらないのではないかとさえ思える。いや、きっと変わらないだろう。リーブにとっては、何も障りがないのかもしれない。この状況も、自分が命を狙われることすらも。
リーブはあくまで穏やかに続ける。
「我々に殺せなかったその子を、あなたに殺せるはずがない。蹴られた程度でその子は死にません。今でこそあなたにおとなしく蹴られていますが、私がそうするように言っているからに他ならない。——私が良しと言ったら、その子は容易くあなたの喉を食い破りますよ」
リーブが言い終わるか否かのうちに、うずくまっていたクラウドの咳が止まった。荒い息が唐突に元のリズムを取り戻し、ぼんやりとしていた瞳に光が戻る。目が合い、呆然としている彼に、クラウドはにっとその唇をつり上げて見せた。
その変化は劇的ですらあった。まるでリーブの声が魔法か何かだったといっても不自然ではないくらいだ。背中を向けているため、頭目には見えていない。だがその変化は伝わったのか、頭目はチッと舌打ちをすると、ゆっくりと彼とクラウドの方に近寄ってきた。
「どうやらあんたは次の機会もいらないらしいな」
「いただいても活かせないんですと申し上げてますよね」
「ああそうかい」
男はそう吐き捨てると、クラウドの肩に手をかけ向きを変えさせる。そして、腰のホルスターから無骨な拳銃を抜き、身動きのとれないクラウドの額に突きつけた。
「クラウドさん……!」
「そっちの新兵のが、まだマシな性格してんじゃねえか」
頭目はせせら笑い、引き金に指をかける。
「三秒だ。三秒だけあんたにやる。それ以上はナシだ。蹴られて死ななくても、鉛玉なら死ぬよな」
「はあ」
「三——」
だが、頭目のカウントはそれが最後だった。
何かが、男が構えている拳銃をその指ごと吹っ飛ばしていったのだ。血煙と指と、そして重たい金属が転がる音ののち、一拍おいて男の間抜けな「え?」という声がした。さらに一拍おいて、中の見張りの右目に穴が空き、二三歩交代したあと壁にずるずるともたれかかって事切れた。
「俺の手」
「よし」
一瞬生まれた奇妙な空白と男の狼狽、そこに割り込むのはリーブの声だった。どんな筋肉を使ったのか、そしてどこにその力があったのかは知らないが、その声が合図だったかのように、転がされていたクラウドが血の尾を引いて跳ね起きる。
「——がお!」
ふざけた声ではあったが、それはまさにこれから何をするかの宣言でもあった。
未だ自分の手首が消失したことに呆然としていた男の喉元に、犬歯を剥き文字通り噛みついたクラウドは、そのまま男の喉を噛み潰しているらしい。両手を塞がれているのにも関わらず——そして相手の方が明らかに体格が良いにも関わらず、肉食獣が獲物の息の根をじわじわと止めていくように、クラウドはめしめしと音が聞こえそうなほど強く、男の気道を塞いでいた。男が残った片腕で引きはがそうとしても、蹴り上げても、食らいついている。くぐもった呻き声こそ上げはするものの、主人の獲物は逃がさないとでも言うように、歯をたてたまま離さない。
男の足掻きが徐々に弱まっていく。もしやこのまま噛み殺すのではと思った矢先、リーブの制止がかかった。
「とどめは無しですよ。聞きたいことがいくつかありますので、気絶したら終わりにしてください」
瞬間、明らかにクラウドの殺気が減じたのを、経験が薄い彼でも察することができた。組み敷いた男の様子をうかがいながら、噛む力を調節している様はまさに、主人の命令に従う猟犬のようだ。
「きょ、局長……」
「何ですか? ああ、さっきの銃撃ですね」
緊張と吹き荒れる殺気がいくらか収まったことで、ようやく絞り出せた言葉に先回りをされた。恐る恐る首肯を返すと、リーブは窓の外に視線を遣る。つられて見た遠くの建物の上で、きらりと光ものが見えた。
「本隊のスナイパーです。クラウドさんを巻き込んでしまうかと思いましたが、なかなか良い腕をしているようだ」
「あ、え、それ、それって」
「ええ、その通りですよ」
またも彼の言いたいことを先取りしたリーブは、今までで一番聞きたかった答えを返してくれた。
「私達は助かりました」
彼がその言葉を言い終わるのと、扉が開け放たれ見慣れた制服が駆け込んでくるのは、ほぼ同時のことだった。
***
最後まで男の喉に食いついていたクラウドが、本隊の突入と同時、糸が切れたようにその体の上から転げ落ちた。やはり限界が近かったらしく、WRO隊員に抱き起こされたクラウドは、先程までの肉食獣めいた笑みはどこへやら、口から誰のものとも付かない血を零しながら、力無く目を瞑っている。
「クラウドさん」
「気を失われてます。ヘリで運びますので、局長もご一緒に」
「解りました」
「担架早く!!」
「この男が主犯ですか?」
「ええ。拘束して本部までお願いします。叩けば埃が出そうですので、思う存分叩いてください」
「隊員の回収完了しました。すぐ出られます」
「後始末は任せましたよ」
先ほどまでとは打って変わって、大勢の声が目まぐるしい勢いで、ほこりっぽい空間を飛び交う。後の指揮は現場指揮官に任せ、リーブは担ぎ出されたクラウドを追って部屋を出た。
部屋の外はまさに凄惨の一言に尽きた。全員が全員、WROの特殊部隊にあっさりと平らげられたらしく、所々に血だまりに沈む死体がある。試験的な運用段階であり、かつ民兵程度の練度の敵が相手ではあったが、一発の発砲も許さずに制圧ができたのは最高の成果と言えるだろう。
(正式に運用しても良さそうですね)
死体の身元調査は後でタークスにも動いてもらうことにして、リーブはヘリに乗り込んだ。彼を最後に扉が閉まり、ふわりと鋼鉄の塊が宙に浮く。
「どうですか?」
クラウドの身体を診ていたスタッフに聞くと、叩き上げのチーフは目を離さないまま、「また無理させたでしょ」と言った。
「内側の損傷が酷いですね。肺が片方潰れかけてます。——酸素マスク用意して、あと回復魔法準備。レベル1を徐々にかけてこう。この人のことだから、一気に治りすぎて骨の破片が残っちゃうかもしれない。外から治すよ」
「了解」
救急スタッフの的確な指示に従い、処置の準備が整えられていく。邪魔をしないように、ただしできるだけ近くで見守っていたら、回復魔法の効果が早くも現れたのか、クラウドの目がうっすらと開いた。
「意識戻りました」
「了解。——クラウドさん、わかります? 今本部に運んでるんで、酸素マスクはずさないで、できれば喋らないでいてくださいね」
ローター音に負けず大きな声で、端的に事実を伝えるチーフに対し、クラウドは短くうなずいた。しかし直後、その蒼い瞳がきょろきょろとさまよう。何かを探しているのだろうかと見ていたら、やがてぱちんと視線がかち合った。
「——ん?」
瞬間、にへら、と言う音が聞こえそうなほどに、クラウドの顔が安堵の笑みで緩んだ。どうやら探していたのは自分だったらしい。
酸素マスクの奥の口が僅かに動く。声こそ聞こえなかったが、確かに「リーブ」と紡いだのが見えた。
「はいはい、居ますよ。クラウドさん」
すぐ近くに投げ出されている指先に触れる。腕まで痣だらけなので、握ってしまったらきっと痛むに違いないとそっと触れるだけに留めたが、あちらからきゅっと指を掴まれた。そして握って安心したのか、若干強ばっていた体から力が抜ける。それを見つけたチーフが、すかさず視界に割り込んで声をかけた。つくづくよく気がつく優秀なスタッフだ。
「あ、ほっとしました? まだ寝ちゃダメですよ、もう少し頑張ってくださいね。後でたくさん寝て良いですから」
「だそうですよ。起きてましょうか」
うん、とまたクラウドが頷いた。
きゅっと握る力が強くなったのを感じながら、リーブはその金髪を、優しく撫でてやった。
***
ヘリは何事もなく空を飛び、想定よりもだいぶ早い時間で本部に着いた。簡単な診察を受けた後は、後始末と情報収集が待っている。
局長がするべき諸々を済ませて病室へ顔を出せたのは、救出から数時間後の日が沈んだ後のことだった。その頃には処置が終わっていたのか、モニタリング用の機材に繋がれたクラウドが、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
一瞬迷った後、リーブは寝台ににできるだけ静かに腰を下ろす。だが、傷つき体力を失っていたとしても、気配に聡いのは変わらないらしい。わずかに目蓋が震えた後ゆっくりと持ち上がり、蒼い魔晄の瞳がリーブを捉えた。
「起こしてしまいました?」
「……あんたが来たら起きようと思ってたんだ」
体は起こさないまま、点滴の刺さった手がゆらりと伸びる。痣が綺麗に消えた白い手は、そのままリーブの頬を優しく撫でた。二度三度と髭や唇も触れていった後に、幾分か眠たげな、しかし優しい声がする。
「——おつかれさま」
その一言で、今の今まで未だに貼り付いたままだった自身の笑顔が緩やかに溶けていくのを、リーブは感じた。わずかに体温の低い手を握りしめ、唇を押し付けたその瞬間には、泰然たる指導者の笑顔はすでに取り繕うことすらできなくなっていた。
「……ああ、勿体ないな。情けない顔になってる。いい笑顔だったのに」
残念がるクラウドの瞳には、今にも泣き出しそうなくらいの自分の顔が映っている。確かに情けないが、どうにも元に戻すことができない。
「クラウドさん、クラウドさん、ほんまにもう、心配しとったんです」
口から出る声まで情けない。だが、それを取り繕う余裕もリーブには残っていなかった。ちゃんと処置を受けて、無傷でとは行かないまでもクラウドが無事にそこにいるだけで、今まで抑えていた何かが爆発しそうだ。
「色々潰れてたんですよ、蹴られて」
「知ってるよ」
「あんなこと言うから」
「言わなきゃ他の奴も死んでた」
「ほんま、クラウドさん、もうせんといて」
伸ばされたもう一方の手も掴んでそっと抱き起こすと、リーブは薄い施術衣に包まれた体を優しく抱きしめた。
——「俺を蹴った方が楽しいぞ」と、クラウドはあの時そう言った。リーブに暴力が向かいかけたその直前で、男の足に絡みついたのだ。
かくして、クラウドの狙い通りの行動を男は取った。そしてリーブとほかの隊員は、死人も出さずに危機を脱することができたのだ。
だがそのせいで、クラウドは延々蹴られることになった。丈夫だからとか、すぐ治るからとか、自分の体のことをよくわかっているが故に、躊躇せずその身を差し出す彼を見るたび、辛くなる。
「トップは笑っていればいい」と言いながら、痛いことや辛いことを全てリーブのところから持ち去ろうとするクラウドは、何かある度に怪我をする。いっそ危険が及ばないように、どこかに閉じこめておきたいと、何度思ったかわからない。そしてそんなリーブの気持ちは知ったこっちゃないとでもいうのか、決まってこう言うのだ。
「あんたが無事で良かった」
「あなたが無事じゃなかった」
「俺は大丈夫だよ」
「こういうのは大丈夫だと言わないんですって、何回も言ってますでしょ」
ふわふわした後ろ頭の逆毛を撫でてやると、くすぐったい、とさえずるような笑い声が上がる。
「リーブ、もっと強く撫でてもいいんだぞ」
「ダメです。まだ治ってないんでしょ」
おねだりのつもりなのかすりすりと頬ずりを始めたクラウドを窘めつつ、抱えた身体をゆっくりと寝台に寝かせてやる。明らかに不満げな色を浮かべた彼の白い額に、リーブは唇を寄せた。
「ちゃんと治したら、もう少し激しくしてあげます」
「意地悪だな」
「そんなこと言って、もうだいぶ眠いんでしょう。たくさん寝て良いって言われたんですから、有効に使ってください」
「……あの人、厳しいから嫌だ……」
「叩き上げですからね」
だから怒られる前に寝てください、と最後の一押しでぽんぽんと掛け布団を叩く。もう少し起きていたいなどと言いながら、リーブの手を掴んで僅かな抵抗を見せたクラウドだったが、やがてすとんと寝入ってしまった。
思いの外しっかりと握られてしまった手をゆっくりと解いていく。まだ起きているつもりなのだろうか、やだ、なんて寝言がむにゃむにゃと聞こえてきたが、それも頭を撫でてやった途端に大人しくなった。
「明日の朝まで、いい子で待っててくださいね」
リーブはゆっくりと、寝台から腰を上げる。
その瞬間にはもうすでに、彼の顔には世界の王たる笑みが戻っていた。