リブクラ / pixiv
悪を悪として選ぶ者はいない。悪を善きものであると誤解するのだ。
——メアリー・ウォルストンクラフト・シェリー
***
月日の感覚は疾うになくなっていた。
ただのマットを敷いただけの床の上で、足音に怯えながら生き延びることだけを考えて息をする。幸いにしてすぐ殺そうなどという考えはないのか、与えられるボトルの水や簡素な食事で、餓死することは避けられそうだが、その前に頭の方がどうにかなりそうだった。
最初は混乱、次に久しく感じたことのない、純粋な恐怖が彼の四肢を、そして逃げようとする気概まで封じ込めた。どこともわからない狭い空間に閉じ込められ、用事があるときだけその空間から外に出される。しばらくない時もあったが、そういったときはひたすらに、マットレスの上で震えているだけだった。
下から聞こえてくる足音に、彼はただ震える。
近づいてこないで欲しい、そのまま通り過ぎて欲しい、頼むから用事なんてあってくれるなという願いは、今日は叶えられなかった。
「——起きてますね?」
その一言に身体が竦む。殴り飛ばしてしまえばいいのにそれができない。なぜなら相手は知り合いだし、何度も助けてくれた人間だからだ。それに彼の目を通して見る限りでは、恐ろしくいつも通りで、何も変わっていないようだった。だから、何もできない。抵抗もできない。ただ手を掴まれるがまま、その空間を引きずり出されて、鼻歌交じりに連れて行かれるのだ。
「あんまり障りがないようで良かったです。早く次に取りかかれる。足下気をつけて」
覚束ない足取りの彼にまるで気を払わずに連れてきたのは、いつも『用事』をさせられる部屋の前だった。躊躇なく開けられる扉の奥に放り込まれると、その独特の空気に足の力が抜けた。消毒液の匂い、埃の匂い、そして磨かれた床の匂いが、じわじわと脳髄を浸食していく。
「ちょっと、大丈夫?」
「……いやだ……」
床の上にへたり込んだままようやく絞り出せたせめてもの願いは、あっさりと切って捨てられた。
「ダメです。ちょっと遅れてるんだから急がないと。早めにすませちゃった方がいいですよね?」
「よ、よく、ない……なんで、何で」
「また聞きたいんですか? 理由。好きですね」
容赦なく引きずられて、部屋の真ん中に鎮座する硬い寝台に寝かされ、両手両足を手早く拘束される。上から照らされるライトの光を、すでに用意してある機材の数々が反射して両目に刺さり、直視できずに思わず目を背けた。
「言ったじゃないですか。宝条博士の続きをしなきゃいけないんだって。だから、協力してください」
「……っ」
「こんな研究に使われるなんて、本当にあなたは最高に幸せなサンプルですよ」
日付の感覚は失せていた。
——同時に、もはや希望も消え失せていた。
***
クラウドがいなくなったという一報が入ってから既に四日以上が経過しており、リーブの心は焦燥で埋め尽くされていた。
セブンスヘブンにも帰らず携帯にも出ない。連絡も入れずに仕事を蹴るなんて絶対にしない。だから何かおかしいという、幼なじみの言を信じて探させたところ、最後に依頼を受けた場所とは全く見当違いのところでフェンリルが見つかり、そのそばに携帯が落ちていたと報告が上がったのが三日前だ。それから全く進展がなかった。最後の配達先の人間はWROの職員だったが、その人間にも連絡が取れない。
もしかしたら職員共々、何かに巻き込まれているのかもしれないと、力を入れて捜査しても、二人は影も形もなかったかのように消え失せていた。
「……空振りですね」
ヘッドギアを脱いだシェルクに、リーブはただ「そうですか」と呟くしかなかった。クラウドが消えた地域や、WRO職員の居住地に存在する大小さまざまな地下組織の情報を、ようやく活発になってきたネットワークの海から収拾させてもなお、その足取りが掴めないなら、残る道は後一つだ。
「調査項目を変更しますか」
「ええ、お願いします」
何らかの事件に巻き込まれているなら、本人達のパソコンや通信記録、そのほか諸々にその片鱗が現れているかもしれない。個人の記録や端末を覗き見るのは避けたかったが、この状況ではやむを得ないだろう。
「どちらから?」
「職員の方からいきましょう」
「了解しました」
シェルクが再び、ヘッドギアを被った。小さな彼女を取り巻いているホログラフィックのディスプレイに、次から次へとその職員の情報が浮かんでは消え、目まぐるしい勢いで取捨選択されていく。
「WRO救急医療スタッフとして従事、現在はユニットチーフ。経歴に問題点は見あたりません。神羅カンパニーの関係者ではないようです」
「出身地は?」
「コスタです。ミッドガルに親類などの存在も確認できません。独身、両親無し、親戚無し。メール履歴から恋人もいないようです」
「仕事一筋ですね」
「そのようですね。最近は医学論文やレポートを取り寄せているようです。今まではそれほどでもなかったようですが」
ふむ、とリーブは顎を撫でた。
「内容はわかりますか?」
「リストなら十分ほどいただければ。何か気にかかることでもあるんですか」
「最近の変化がとっかかりになるかもしれません。何もなければ、次に――クラウドさんにいきましょう」
それもそうですねとシェルクが頷き、霞のようなディスプレイが一新された。ディスプレイに所狭しと表示されているリストが対象の論文のようだが、かなりの数だ。
「概要と著者、入手先のみに絞って」
「はい」
各属性をスキャンするためのものだろう、複数表示された緑色のマーカーが、リスト記述を順繰りに走査していくのを眺めながら、リーブは何故か予感にも似た、嫌な胸騒ぎを感じていた。
何かある気がする。
この文字の羅列の中に、何かが潜んでいる気がしてしょうがない。戯れにするような占いで得るそれよりも、もっと強い予感が、電子の文字の羅列に対して警鐘を鳴らしている。
その予感が正しいことを、ある一つの論文に集中したマーカーが告げたのは、おおよそ五分ほど経ったあたりのことだった。
「——ヒットしました」
「内容は?」
しばらくお待ちくださいと言ったシェルクが、はっと息をのんだ。どうしましたかと問うと、ほかのリストを退けて、その論文だけを残して詳細な情報を表示していく。
それを目で追っていたリーブもまた、シェルクと同じような反応をすることになった。
「……シェルクさん、その論文はアクセス制限されたところに落としていただけますか」
「わかりました。出元も探ります」
「並行して、彼、もしくは関連する名義で借りている物件、ならびにかつて働いていた施設で今は使われていないものはないか調べてください」
「勿論です」
「私は人を集めます」
再度目まぐるしく移ろい始めたディスプレイと、それに囲まれるシェルクを置いて、リーブは己のオフィスに戻るべく、情報管制室を出る。
ディスプレイに踊っていた、かつての同僚だった狂った科学者の名前は、オフィスに戻ってもなお網膜に焼き付いて離れなかった。
***
その論文は悪魔の論文だった。
内容は、かつてニブルヘイムで行われていた研究をまとめたものだ。どこかに発表するつもりだったのかそれとも重役にプレゼンテーションするためなのか、幾度かの推敲を重ねられたが結果として完成していないそれは、明らかに非人道的な研究の記録だった。記載されたデータ、実験記録、分析、考察、すべてがあるサンプルについて述べられているその論文は、他ならぬ宝条博士の手によるものだ。そして、対象は『処置』を受けた一般兵——クラウドだった。
本来なら即座に廃棄すべきものだ。だがリーブはできなかった。それが未だに不可解な部分の多いジェノバに関する研究だったからと言うのも、よく怪我をしてくるクラウドの治療に役立つかもしれないものだったの言うのもある。だが、それは言い訳に近い下の下の理由だ。
——本当の理由は、論文に記載された内容が、破棄するには惜しい価値のあるものに思えたからだ。目を通した瞬間、その論理の美しさにすばらしいとさえ思ってしまった。研究の内容や実験のログを見る限りでは、自分の愛する人がただの実験動物として扱われている、背筋が粟立つようなものであるのにも関わらず、宝条博士が論文という形に落とし込むと、途端に説得力に満ちた芸術に変わる。さらに中間報告という形式で、未完成なのがたちが悪い。
毛色の違うエンジニアのリーブですらそうなのだ。宝条博士と同じような、医療や生物化学を生業とする人間にとっては、その論文は『完成させなければならない』という強迫観念に近い何かを植え付けられるだろう。
真っ直ぐに研究や仕事をしてきた人間が、真っ先に呪いにかけられる未完成の論文たちは、まさに悪魔の論文だった。
かくして、男は悪魔に魅入られてしまったのだ。かつて救急隊員としてジュノンやコスタで活躍し、WROの救急ユニットチーフまで勤め上げた彼は、その誠実さ故に容易く毒牙にかかってしまった。
「——見つけました!」
WRO職員の名義で借りられていた古い一軒家の中を、くまなく探していた特殊部隊の隊員のうち、古株と言っていい隊員の声がして、リーブは急いでその声のした方へ向かった。隊員は脚立を足場に、寝室の天井にあった通気孔に顔を突っ込んでいた。
「屋根裏の奥です。俺が行きます」
「ええ、お願いします」
ひょいひょいと隊員の姿が屋根裏に消える。ややあってから、白い裸の足が現れ、膝が出て、シーツを纏った腰が、胸が、そして蝋人形のように真っ青な生気の失せたクラウドの顔が、通気孔からゆっくりと出てきた。
「クラウドさん!」
リーブは手を伸ばしてその身体を抱き留める。
「クラウドさん、大丈夫ですか?」
「……」
「クラウドさん!」
だが、開いた目は虚ろでどこも見ていない。リーブの呼びかけにも反応しない。息だけはしているが、それだけだ。薬でも盛られたかと救護班を呼ぼうとしたら、今まさに拘束され、部屋から出されようとしていた男が足を止めた。
「もう何も反応してくれないですよ」
「……何ですって」
止めて、と隊員に指示を出す。
男は心底疑問だと言わんばかりに、リーブとその腕の中のクラウドを見ている。
「今朝からかな? 何話しても答えてくれなくなっちゃって。疲れちゃったのかもしれません」
「……」
「勿体ないですよね。こんな素晴らしい研究に使われる機会なんてそうそう——」
瞬間、部屋のガラスというガラスが割れ飛んだ。
「——黙りなさい」
散ったガラスの破片が、絞り出したリーブの声に呼応するかのように、床の上でカタカタと震える。
「局長」
今にも爆ぜそうな感情を必死で抑え込みながら、リーブは心配そうに見やってきた隊員に「連れて行きなさい」と告げた。
「話は後でじっくり伺います。それまでに、私があなたを殺さずにいられる程度の弁解を用意しておくことですね」
「弁解だなんてそんな」
「さっさと連れて行きなさい。耳障りです」
まだ何か喚きそうな男が、隊員に引っ立てられていく。静かになったところで、リーブは天井裏から出てきた隊員に医療班を呼ぶように告げた。
***
その知らせを受けたときはまさかと思った。だが、実際の様子を見て、本当だったと理解した。
ガラス越しに見た病室のベッドの上、自分を守るようにうずくまっているクラウドは、何の反応も示さないまま、ただ呼吸をしているだけだった。リーブやティファ、デンゼル達が声をかけても、まるで何も聞こえていないかのように、ぼんやりと虚空を見つめているだけなのだ。
いったん戻った局長室で話を聞いたところによると、相手が人間だと理解した瞬間に、心を閉ざして殻にこもってしまうらしい。クラウドに酷いことをした人間は、とてもいい人だったから、それで何もかもが信じられなくなってしまったのかもしれないと、リーブは言った。
「……だからオイラが呼ばれたの? 人間じゃないから?」
「もしかしたら……と、思いまして。酷いことを言っているのは、理解しています」
二足ではなく四つ足なら、そして見た目がヒトでなければ、なにかしらの反応はしてくれるかもしれないというリーブの考えは、確かに的を射ているようにナナキには感じられた。リーブはクラウドのために、できることをしようとしているのだ。それに応えないわけにはいかないし、応えたいとも思った。
「ケット・シーは?」
「少し反応してくれたんですが、だめでした」
「二本足だから?」
「……かもしれません」
「わかったよ。オイラ、やってみる」
短い会話を終え、ナナキはリーブに先導されて病室に向かった。
道中の空気は酷く重かった。何か話をしようかとも思ったが、リーブからは、悩んでいる匂いと、後悔の匂いがしたから、無理に話を聞こうとは思えなかったから、ナナキも黙っていた。
やがて病室の前に来ると、リーブは手に持ったカードキーを翳した。音も立てずに扉が開き、白い内装が目の前に現れる。
「お願いします」
「うん」
肉球に吸い付くほど綺麗に磨き上げられたリノリウムの床を歩き、ナナキはベッドに近づいた。
すんすん、と鼻を鳴らす。クラウドの匂いだ。だが、酷い怯えが混じっている。いままでクラウドからは嗅いだことがないような、何かをとても怖がっている匂いがする。
ナナキはひょいとベッドの上に両前脚をかけ、その中を覗き込んだ。クラウドは両耳を塞ぐようにして頭を抱え、虚ろに視線を投げているだけだ。時折ゆっくりと瞬きをするがそれだけで、あとは何かのお面のように、表情が凍り付いてしまっている。
「……クラウド、オイラだよ」
声をかけたが、反応は返ってこなかった。その青い瞳にはナナキの姿は映っているが、ナナキを見てはいない。ミディールの時のようだと思った。
ただあの時と違うのは、今のクラウドは自分で心を閉ざしている、ということだ。開いてくれるかどうかは、クラウドにしかわからない。
ナナキはさらに言葉を重ねた。
「クラウド、返事してよ。……オイラ、クラウドに会いに来たんだよ。みんな心配してるから、早く戻ってきなよ」
くぅーん、と情けない声が出たが、谷のみんなではなく、クラウドに聞かれるなら別に構いやしなかった。鼻をクラウドの頬に押しつけ、つついてみる。だが、反応はない。
ナナキはベッドに乗ると、クラウドに寄り添うように身を伏せた。
「……もう、戻ってきて良いんだよ」
べろんとその頬を舐めてやる。麦畑のようにまばゆい金髪に鼻を埋め、耳を覆っている手を鼻でつついて押しのけた。ぱたんと力なくベッドに落ちたを、まるで獣の親が仔にそうするように、点滴の針を避けつつ舐め、甘噛みし、鼻を押しつけて反応を窺う。
半ば思いつきだった。人間じゃないとわかればいいなら、そして見えても聞こえてもいないなら、触覚に直接訴えればいい。
「もう悪い人間はいないよ」
そしてその思いつきは、的外れではなかったことが、次の瞬間わかることになった。
虚ろな目に、じわりと透明な涙が満ちる。一杯になった涙は大きな目の縁から溢れると、横に伝って枕へ吸い込まれていった。
「クラウド、わかる?」
次々と零れ落ちていく涙を舐めてやりながら、ナナキはまたクラウドに話しかけた。閉ざされた心が開こうとしている。後もう少しだ。後もう少しでクラウドに会える。
「わかるよね? オイラだよ、ナナキだよ」
「……ぁ」
「そうだよ、もうちょっとだ。頑張って」
凍てついていたクラウドの表情にヒビが入り、怯えと恐怖をそのまま写し取ったかのようなそれに姿を変える。点滴が刺さったままの腕が持ち上がり、震えながらナナキへ伸ばされた。
「……な、……ナナキ、ナナキ……?」
「そう、オイラだよ。昨日着いたんだ、コスモキャニオンから。クラウドに会いに来たんだよ」
自ら鼻を差しだし、撫でさせる。クラウドの手は、鼻、頬、そしてふさふさの胸を触り、金の脚輪のついた前脚にぱたんと落ちた。硬く引き結ばれた唇が戦慄き、小さな嗚咽から胸を締め付けるような号泣へと変わる。
「……あ、あ、……ぁあ、あああああああ」
「うん、怖かったよね。もう大丈夫だよ、みんないるから、リーブも、ティファも、デンゼル達も、みんないるところに戻ってきたんだよ」
「あああああああ……ッうぁ、あ、あああああああ——」
それから泣き疲れて寝てしまうまで、ただ泣き続けるクラウドの頬を、ナナキは優しく舐め続けた。
***
「リーブも会えた? 大丈夫だった?」
「大丈夫でした。本当にありがとうございます」
「オイラは何もしてないよ。クラウドが自分で戻ってきたんだ」
ソファーにその大きな体を横たえる星の谷の長は、燃えさかる尻尾をゆらりと満足げに揺らした。
「オイラ、もうちょっとここにいる」
「コスモキャニオンの方は良いんですか?」
「長老達がいるからね。オイラがちょっと留守にするのには慣れてるし、大丈夫」
「そうですか。助かります」
本当にありがとうございましたと再度礼を言うと、ナナキは「褒めすぎだよ」と笑った。だが、正直ナナキがいなかったら、クラウドはずっとあのままだったかもしれないのだ。人間に恐怖し、いつ誰が豹変するかと怯え、外の世界を遮断して人形のように呼吸するだけの存在として。だからいくら礼を言っても足りない。
——ただ、ちゃんと戻ってきた今でも気がかりなことは残っている。
「……クラウドさん、今回のことを覚えてないんです。さっき会いに行ったら、『また俺は怪我をしたのか』って、笑ってました」
泣き疲れて眠って、そして目を覚ましたときには、クラウドの記憶からはあのチーフのことも、チーフにされた実験のことも綺麗になくなっていたのだ。病室にいたのはいつも通り面倒に巻き込まれてしまったからなんだろうと素直に信じ、日付が最後の記憶より進んでいることも、その間寝てしまっていたんだろうと、ごく自然に受け止めていた。そこに、宝条博士の論文のこともなにもかも、残っていなかった。
「それほど嫌なことされたんじゃないの? 普通の人でもあるよ」
「そうなんですけどね……犯人のことまで忘れてしまうのは、あまりにも不自然です。もしかしたら、ジェノバの力を使ったのでは、と」
リーブはすっかりぬるくなったコーヒーに口を付けた。
クラウドの心は脆い。たまに痛む古傷も、今でも塞がりきっていない傷もある。今回は塞がりきっていない傷口を乱暴に抉られたのだ。
ジェノバ細胞は心を読み、姿形や記憶を変える。ジェノバ細胞は宿主のために、そして宿主は自分のために、心を壊さないように作用したのかもしれないと、リーブは考えていた。
「……忘れることも大事だよ」
ナナキがふすんと鼻を鳴らす。不満か不安か、それがどちらなのかは推し量れなかった。
「ええ、私もそう思います。……ですが、何かの弾みで思い出したら、クラウドさんは壊れかねない。だから、本当なら忘れずにゆっくり、向き合って治していくしかないんです。忘れるのはそれから」
「でも、今はもう忘れちゃってる」
「……もう二度とこういうことを、起こさないようにするしかありませんね。クラウドさんのために」
論文はすでに削除した。シェルクに頼んで、追えるところまで追って消去してもらうように伝えてもいる。何かとクラウドのことは気に入っているらしい彼女のことだ。徹底的にやってくれるだろう。
だが、ネットワークに放たれたデータは永遠に消えないのだ。誰かの端末に、ディスクに、テープに、一つでも残っていたらまた増えていく。
(——まるでウイルスだ)
リーブは再度コーヒーを飲んだ。
根本的な解決にはならないのかもしれない。だが、放っておくわけにもいかない。
「……いっそのこと、クラウドさんを閉じこめてしまうのはどうでしょう」
「壊されちゃうよ、無理だと思う」
「ははは、そうですよね」
廃案だと笑いながら、リーブは諸手を挙げた。
***
心に負った傷は体の傷と似ている。癒すためにありとあらゆる力を尽くしても、必ず傷は残るのだ。
——フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー