繋ぎ目

WRO 特別収容プロトコル (2) / リブクラ / モブクラ / pixiv

 青い目がじっと、彼の手元を見ている。
 形の良い瞳がいつになく大きく開かれて、博士の手の動きを飽きもせずに追いかける。好奇心に満ち満ちた星の色は、普段博士が見ているよりも、きらきらと宝石のように輝いていた。ちらりと見ただけで吸い込まれてしまいそうな色に、博士は思わず手を止めかけたが、瞳の持ち主をそう長く待たせるわけにはいけないことを思い出し、作業を再開する。
 普段〝それ〟と呼ばれる瞳の持ち主は、寝台の上でいつも以上にずっとおとなしくしていた。危ないから離れていなさいと言ったせいか、少し距離を取ってはいるが、顔だけはできるだけ近づけて、じっと手元を見つめている。よほど見ているのが面白いのだろう。
「もう少し待ってくださいね」
「うん」
 〝それ〟のまっすぐな視線を受けながら、博士は作業の手を少し速めた。今日はだいぶ機嫌がいいが、いつ豹変するか正直なところ解らないからだ。特に今は、〝それ〟が一番大切にしているものを弄っている。何がきっかけになってしまうか予想がつかない。
 だが、彼が危惧した瞬間は訪れなかった。玉留めを作り糸を切り、針と鋏を箱にしまうと、博士は手に持った布と綿の塊を——王冠をかぶり、マントをつけた猫のぬいぐるみを〝それ〟に見せた。
「できましたよ」
「できた?」
「ええ。もう大丈夫」
 はいどうぞ、と近づいてきた〝それ〟にぬいぐるみを渡してやると、〝それ〟は満面の笑みで受け取り、抱きしめ、頬摺りをする。その姿はまるで、お気に入りの玩具を布団の中から見つけた子供のようだ。
「リーブ、すごい」
 〝それ〟が摘まんで見せたのは、博士が先ほどまで縫っていたぬいぐるみの腕の部分だった。きっと「直ってる」と言いたいのだろうと察した博士は、首肯と笑顔を返してやった。
 完全に元通りとまでは行かないが、今にも取れそうだった状態からは何とか脱して、それなりに見られる形に仕上がったと思う。綿も補充してやったから、もはや布同然でぺちゃんこだったシルエットも、いくらか肉付きが良くなった。一カ所直すなら全部直してしまった方がいいだろうと、前から気になっていたほつれや穴も一気に塞いであげたから、目に付くような傷はもうない。
「大事にしてくださいね」
「うん」
 〝それ〟は頷くと、よかったな、とぬいぐるみに話しかけた。
「もう痛くないよ」
 鼻先を、愛嬌たっぷりの口元を、そして笑っているような目元を撫でる〝それ〟の指先は、この上なく優しいものだった。

***

 WCP-001-J-A。
 布と綿でできたものにしては些か複雑で、無機質な名前が、そのぬいぐるみには付けられている。初めてプロトコルにぬいぐるみが記録されるようになったのは、〝それ〟がまだ〝それ〟と呼ばれていなかった頃、遥か昔の時代のことだ。
 ぬいぐるみは初代局長より保管中の〝それ〟へ贈られてからずっと——〝彼〟が〝それ〟へと変貌し、理性を喪うほどにヒトを憎むようになってからも、長い長い間〝それ〟のそばにいた。旧収容施設が〝それ〟の力で崩壊したときも、現在の収容施設に移送された時も、常に〝それ〟と共にあったと記録には残っている。
 博士が担当し始めた時も、〝それ〟は時折ぬいぐるみへ話しかけ、動かしては遊んでいた。そして、寝るときも食事をするときも、博士と一緒にいるときも、腕に抱えて離さなかった。離してしまったら死んでしまうとでも言うかのように。
 実際、ぬいぐるみを手放すと、〝それ〟は死んでしまうのだった。正確には、〝それ〟の理性が消え失せてしまうのだ。ぬいぐるみがないとわかった瞬間の〝それ〟の理性は、たちまちのうちに果てのない憎悪に呑み込まれてしまう。もし他の人間がぬいぐるみを持っていたら、その結末は推して知るべしだ。
 ——だが、博士だけは別だった。初代WRO局長、リーブ・トゥエスティの面影を持つ博士だけは。

(この子にとって、リーブ局長は何だったんだろう)
 強請られるままにその金髪を撫でてやりながら、博士は小さな溜め息を吐く。
 〝それ〟の反応から察するに、他の抑制要素を持つ人間たちとは、明らかに一線を画す存在だったということは解る。だがそれが何かが解らない。最初は父親なのかと思ったが、リーブ局長は生涯伴侶も愛人も持たなかったという記録があるし、記録されている〝それ〟の歳からして隠し子であるというのも無理がある。歳の離れた兄弟というのも考えがたい。
 〝それ〟とリーブ局長を繋いでいるものがいったい何なのか、これほどまでに無防備に甘えられるような存在とは何なのだろうかと、博士がここを任されるようになってからずっと考えているが、現時点においても納得のいく答えは出ていない。
「……リーブ、顔、こわくなってる」
 出口のない思考が顔に出てしまっていたのか、ふと顔を上げた〝それ〟の手が伸びて、博士の眉間をむに、と触ってきた。皺を伸ばしてやろうと言うのだろうか、拙い手つきで一生懸命、博士の眉間を揉んでいる。その様子があまりにもいじらしくて、博士は思わず笑ってしまった。
「くすぐったいです」
「しごと? いたい? ……俺のせい?」
「仕事のことを考えていたんです。怪我もしてませんし、あなたのせいでもないですよ」
「……嘘」
 〝それ〟の魔晄色の瞳が、博士の瞳を捉えた。
「おれのせいだ」
「どうしてそう思うんですか?」
「リーブ、ずっと、名前呼んでくれないから……怒ってるからだろ、俺のこと」
 〝それ〟の手が下ろされ、瞳がふいと伏せられる。ぬいぐるみを両手で抱きしめ俯く姿は、孤独に押しつぶされそうな子供のようだ。
 ——不安定になり始めている。
 博士は剥き出しの肩に手を置き、その顔をのぞきこんだ。〝それ〟の大きな目にはすでに、溢れんばかりの涙が浮かんでいる。
「怒ってませんよ。怒る理由もないですし」
「じゃあ、なんで名前、呼んでくれないんだ。前みたいに、おれのこと、『クラウドさん』って、呼んでくれないんだ」
 金の睫毛からぽたぽたと、瞬きの度に透明な雫がこぼれては、〝それ〟の白い足の上に落ちていく。
「会っても、撫でるだけで、なにもしてくれない」
 薄い唇から紡がれる言葉は、いつも以上に弱く、そして震えていた。今にも消えてしまいそうな儚い声で、〝それ〟は言葉を続ける。
「おれのこと、嫌いになった? リーブの言いつけ守らなかったから? ……ひと、たくさん、たくさん殺したし、壊したし、俺、もう、にんげんじゃないから? 人間に戻れないから? おれ、俺は、にんげんに」
「……っ」 
 〝それ〟の言葉を最後まで聞く前に、博士は〝それ〟の身体を胸元に抱き寄せた。
「あなたは人間ですよ、クラウドさん。紛れもない、人間です」
「リーブ、」
「大丈夫。大丈夫ですから」
 薄い施術衣に包まれた〝それ〟の背中を、博士は優しく撫でてやる。
 ——本部連中に見られたら、大目玉どころじゃないな、これは。
 背中を撫でてやりながら、博士は心中で苦笑を漏らした。これで収容規則のうち三つは違反していることになる。
 らしくない、衝動に任せた行動だと、思考の片隅に残っている理知的な自分が警鐘を鳴らしたが、博士の頭の中に焦りはなかった。言い訳などいくらでも思いつく。不安定になっている〝それ〟を落ち着けさせるための行動だと、もし記録を見られたらそう言えばいいのだ。決して、情に負けてしまったわけではないのだと。
「不安にさせてしまいましたね。もう少し、こうしていましょうか」
「……うん……」
 強ばっていた〝それ〟の身体から力が抜けるのが解った。そのまま体重を預けてきたので、博士もまた〝それ〟の身体を強く抱きしめてやる。
「苦しかったら、言ってくださいね」
 うん、と腕の中の〝それ〟が頷く。
 博士は〝それ〟が眠ってしまうまで、ずっとその身体を抱いていた。

 ***

 本能に語りかける者は、人間の最も深い所から最も率直な反応を引き出す。

  ――エイモス・ブロンソン・オルコット

三度の飯が好き

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