ゆめのはじまり

WRO 特別収容プロトコル (3) / リブクラ / モブクラ / pixiv

 五階建ての建物まるまる一棟が、彼に与えられた新しい世界だった。どこを歩いてもいい、どこにいてもいい、どこで寝てもいい、けれど外には出られない、世界の王が彼のために用意した新しい世界。彼のために整備された設備、彼のために働いている人々、そして彼を守るために存在するセキュリティ。星を走り回っていた彼にとっては少々狭いだろうが、それでも生きていくには完璧な世界だ。
 彼がそこで生きていくことになった理由については、ジョニーは詳しく聞いていない。ただ「引っ越すことになった」と聞いただけだった。
 本人に聞くことも考えたが、多分、彼本人は聞いていないだろうし、この建物を用意したリーブ本人に聞いたとしても教えてくれないだろう。何しろ、こんな大規模なことをしているのだ。きっと、ジョニーには触れられないなにか大きな秘密があるに違いなかった。そしてそういった秘密は、むやみに暴こうとすると痛い目を見るものだ。
 ようやく落ち着いたから遊びに来てくれと、リーブからメールをもらったのが一週間前のことだ。常連たってのお願いとあれば行かないわけにもいくまいと、了承の返事を出してささやかな土産としてコーヒー豆を選び、臨時休業の札を店に出してWROの迎えの車に乗ったのが今朝。エッジと同じ大陸にある施設に着いたのは、一時間ほど経ってからのことだった。
 白が基調の清潔かつ近代的な内装にそぐわない、ラフな格好をしている職員に案内されたのは、建物中央のエレベーターだ。導かれるがまま乗り込んで扉が閉まった瞬間、恐ろしく性能がいいのか、ほんのわずかの揺れもなく、エレベーターは上昇を始めた。向かう先は最上階だ。
「たぶんあそこにいらっしゃると思うんですけど、違ってたらすみません」
「たぶん?」
 引っかかった言葉を繰り返したら、彼はええ、と頭上の文字盤を見ながら頷く。
「隠れんぼがお好きなんで、たまにいなくなっちゃうんですよ」
「……へー」
「今日はお客様がいらっしゃるんで、ちゃんといてくださいねって言ったんですけど。——あ、着きました」
 ポーン、と音がして汚れ一つないエレベーターの扉が開く。
 その瞬間、目の前に広がった絶景に、ジョニーは思わずぽかんと口を開けてしまった。
 どこまでも広がる青空と一面の花畑がそこにはあった。穏やかな風もそよいできている気がする。いや、本当に室内なのに吹いている。空調設備の単調で無機質な空気の流れではなく、爽やかな風そのものが。
「ようやくここまで咲くようになったんですよ」
「……え、ってことは、花は本物?」
「そうです。風と空は違いますけど——ああ、いたいた」
 説明をしながらきょろきょろと見回していた職員が、花畑のある一点を見て声を上げた。つられて見やると、花畑の真ん中にある広場に設置された木のベンチが視線に留まる。そして、ベンチの端から見えている裸の足も。
「クラウドさん、ご友人、いらっしゃってますよー」
 そんな暢気なことを言いながらベンチに近づいていく職員におとなしくついて行く。背を向けていたベンチに回り込んだところでようやく、熟睡している見知った顔が現れた。
「こんの野郎、気持ちよさげに寝よってからに」
「クラウドさん、起きてくださーい」
「……ん」
 僅かな声が唇から漏れ、一瞬不機嫌そうに眉が寄る。ややあってから物凄く渋々と言った様子で、青い瞳がうっすら開いた。
「起きたかネボスケ」
「……」
「……おい?」
「……」
「……おーい?」
 ブンブンとその目の前で手を振ってやる。クラウドはジョニーの手を追い、ジョニーの顔を見て、そして——
「……はぁーぁ……」 
「二度寝すんじゃねえ!!」
 露骨にがっかりされたため、ジョニーは久方振りに腹の底から大声を出すことになった。

***

 建物の中は基本的に裸足で歩いているらしい。その理由は単純に、ひんやりして気持ちいいから、というのに、ジョニーは思わず「子供か」と呆れてしまった。
「汚くないのかよ」
「掃除の人が頑張ってくれてるから」
 そんなんでいいのか。
 ちょっと脱力したジョニーをよそに、クラウドはぺたぺたと白く磨き上げられた廊下を歩く。その様子を見ていると、確かにそんなんでいいんだな、という感じがしなくもない。職員は皆私服だし、クラウドに至っては服を着ているかどうか怪しいレベルの、病院で健康診断をするときに着る布切れのような、かなり心許ない服装だ。いや、服と言っていいかも危うい。一枚の布を半分に折って真ん中に穴を開け被っただけにしか、ジョニーの目には見えない。しかも両脇は縫われているわけではなく、紐で結ばれているだけだ。リーブの趣味だとしたら相当である。
「で、どこ行くんだ」
 職員とすれ違う度、ひらひらと手を振り挨拶をする彼からは、シンプルに「部屋」という返事が返ってきた。
「部屋?」
「俺の部屋」
「ここ全部お前んちだろ」
「寝室」
「最初からそう言え」
 ぶつくさ言いながらもその後ろをついて行く。
 花畑より一つ下のフロアでエレベーターを下り、相変わらず白が基調の廊下を歩くことしばらく、クラウドは一つの扉の前で足を止めた。今まで見てきたものと何の変わりもない普通の扉だが、表札の代わりなのだろうか、丁寧だが幼さの残る字で「クラウド」と書いたプレートがぶら下げてある。
 ジョニーにはすぐに誰が書いたのか解った。
「マリンちゃんか?」
「ああ」
「バレットに羨ましがられたろ、これ」
「持って帰ろうとしたぞ」
 やりうる、とジョニーは頷いた。あの親バカなら不思議ではない。
 クラウドは鍵穴のないドアノブに手をかけ、押し開ける。
 招かれるまま中に入った瞬間、白一色だったジョニーの視界に久方ぶりの色が付いた。部屋自体はクラウドが「寝室」と言ったとおり、左手の壁際に置かれた少し大きめのベッドが、部屋の主役になるような広さだ。ベッド以外に置いてあるものと言えば、窓際の日当たりがいい場所に置かれた小さなテーブルと椅子が二脚、そして壁に備え付けられた棚くらいである。
 だが、ジョニーの目を引いたのは壁だった。おそらくクラウドが選んだのだろう、落ち着いた黒い壁紙には一面に、彼が出先で撮ったらしい写真が留められていた。
 砂漠、ミッドガル、草原、青空、海。そして家族や、街の人々。おそらくは世界中で撮られたのであろう写真が、壁一面を埋めている。窓がある壁を除いて、空いているのは入って右手の壁の、それも半分だけだった。
「……全部持ってきたんだ。今も撮ってる」
 ジョニーの目線を追っていたクラウドが言った。その顔はジョニーが目にしてきた中では珍しく、穏やかな微笑みを湛えている。
「壁、埋まったらどうすんだ?」
「他の部屋に飾るよ」
「ふぅん、すげえな。そのうちオレの店も撮ってくれよ」
 一瞬だけ、クラウドの目が細められる。一体それが何を意味するのかジョニーが察する間もなく、不思議な色をした瞳にシニカルな笑みが宿った。
「寂しい写真になるぞ、それ」
「寂しくないですー! 客入ってますからー! お前の分も入ってますからー!」
「入ってたのか……」
「そんなに驚くこと!?」
 わざとらしく口に手を当てたクラウドは、一拍置いてくすくすと笑い出す。それにジョニーもつられて、ふひっ、と漏らす。
 写真で埋められた部屋に二人分の笑い声が響いたのは、それからいくらも経たないうちだった。

***

 週ごとに店が変わる食堂で昼食を食べ、部屋でジョニーが持ってきた豆で淹れたコーヒーを飲んでいくつか話をしたら、あっという間に時間は過ぎた。思いの外長居をしてしまったと気づいたのは、窓の外に見える太陽がやや傾き始めた頃だった。
「オレそろそろ帰るわ」
「ああ」
 そこまで送るよとクラウドも追って席を立つ。
「コーヒーありがとう。飲むよ」
「おうよ、飲め飲め。たんと飲め。そんでまた待ち合わせついでに飲みに来い」
「わかった」
 エレベーターを下り、エントランスホールへ続く長い廊下を歩く。
 クラウドの裸足が突然止まったのはその長い廊下の途中だった。何か変なものでも踏んだかと、ジョニーもつられて足を止めたが、別に痛がるそぶりもない。
「おい」
「俺はここまでだから」
 その言葉の意味が一瞬はかりかねたが、クラウドの表情を見たジョニーはすぐに理解した。
 ——彼の世界はここまでなのだ。
「……そうかよ」
「みんなによろしく。今日はありがとう」
「いいってことよ」
 ひらひらと手を振るクラウドに振り返し、ジョニーは背を向ける。
 ぺたぺたという裸足の音が聞こえなくなるまでしばらく歩いて、エントランスまで戻ってきたら、行きと同じ職員が待ってくれていた。
「お店でいいですか?」
「おう」
 すぐ目の前に停めてある公用車に再び乗り込むと、エンジンが掛かりゆるやかに動き出す。
(——広いのか狭いのかよくわかんねえな)
 窓硝子の外、徐々に速度を増して流れていく景色を見ながら、ジョニーはつい先ほどまでいた部屋の中を思い出す。
 壁一面に貼られた写真は確かに世界中を映していた。だが、後半になるにつれ、白い写真が多くなっていたことに、ジョニーは気づいていた。
 口には出していなかったし、また店に来ると話はしていたけれど、恐らくはきっともう、クラウドはあの世界の中から出てこないだろう。広くて狭いあの世界から。
(今度また、なんか持ってってやるかね)
 それくらいのことはしてやってもいいだろうと思いながら、ジョニーは車の窓を開ける。
 建物の中では感じられなかった外のにおいが、車内にふわりと広がった。

***

 閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上がり、不思議な色をした瞳が現れる。いつもならすぐに彼の方を向くのに、ぼんやり虚ろを見ているものだから、つい気になって声をかけたら、「ゆめ」という単語が返ってきた。
「ゆめ?」
「……夢。前の」
「どんな?」
「ジョニーが……遊びに来たゆめ」
 そうですか、とその柔らかい髪を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めながら体を寄せてくる。だがその表情とは裏腹に、続けられた言葉は寂しそうな色を滲ませていた。
「……ジョニー、最近来ない」
「お仕事が忙しいんでしょう」
「また来るかな」
「ええ、きっと。……もう少し寝てましょうか」
 眠いんでしょう、と言うと、うん、と頷く。撫でて、というリクエストに応えてやったら、またとろんと瞳が蕩けた。
「リーブ」
「はい」
 もうほとんど眠気に呑み込まれた呼びかけに答えてやると、殆ど寝言と区別が付かないほど細い声が吐息とともに吐き出される。
「こんど、……店、いこう」
「そうですね」
「……うん……」
 それを最後に、吐息が深くなり完全な寝息へと変わる。
 猫のぬいぐるみを抱きしめて眠る〝それ〟の頭を最後にもう一度撫でた後、博士は匣の外へ出た。

三度の飯が好き

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