リブクラ / pixiv
WROでは犬を飼っているらしい。それも酷く人見知りのする、大きな黒い犬を。
「……」
「だからそんなに警戒しなくても良いじゃないか。あたしは君に何かしようってわけじゃないし、取って食おうとしているわけじゃないんだ」
「……」
その「犬」は、蒼い瞳でシャルアをちらっと見た後、またふいと視線を戻してしまう。なかなか心を開いてくれそうにないな、と、シャルアは清潔な医務室の床に溜息を一つ落として脚を組み替えた。
「犬」が——クラウド・ストライフがミッション後の治療と検査で医務室にいると言うから、良い機会だと思って押し掛けたのだが、シャルアの目的は未だに達成できていない。
***
「犬」がいるというのは、WROに参入してからすぐに聞いていた話だった。しかし、なかなか目にする機会がなく、実際に会えたのは参入してから三年以上経ってからだった。設立直後は何より忙しかったし、ディープグラウンド騒動もあった。何よりシャルア自身が、その騒動で大怪我をしてしまって身動きが長いこととれなかったからだ。
実際に会えたのは、彼女が快復して前のように働けるようになってから、おおよそ三ヶ月ほど経ってからのことだった。定例会に顔を出したあと局長室を覗いたら、応接用のソファーに座っていたのを見かけたのが最初だ。
シャルアが話しかける前に気配を感じたのか、その金髪がゆっくりと振り向く。はじめは誰かわからなかったが、振り返った蒼い瞳とその顔を見たとたん、シャルアの頭の中にある資料の記録写真が浮かび上がり、合致したその瞬間、思わず叫んでいた。
「もしかして、君があの宝条博士の成功作か!?」
——その時のことを、彼女は今でも覚えている。
ビリビリと彼女の指先が震えるほどの何か。今まで感じてきたそれとは明らかに別種の鋭さに、何度も経験してきたはずの殺気だと気が付くまでに数瞬かかった。そして、容赦のない殺意を叩きつけてきた彼は、驚きと他の何かが綯い交ぜになった表情を浮かべ、彼女をヒトならざる瞳で凝視していた。
これは咬み殺されそうだと、そう思った。爛々と輝く魔晄の色が、シャルアの一挙手一投足を注視しているのがわかって、その場から動けなくなった。目の前にいるのは、ヒトの形に押し込められた得体の知れない何かなんじゃないかと思わずにはいられないほどに、革張りの椅子に座っている青年からは、苛烈な殺気が漂っていた。
「おや、こんなところにいらしたんですかクラウドさん」
その緊張を一瞬でほぐしたのは、いつの間にかやってきていたWRO局長だった。リーブが声をかけた瞬間に、彼の全身から叩きつけられていた殺気は嘘のように立ち消えて、瞳も瞬きした瞬間に元に戻っていた。
「まずは医務室に行きましょうって、いつも言ってるじゃないですか」
「……あ、うん、大丈夫だから」
「本当ですか? 前もそう言って無茶したでしょう」
「報告……」
「後で聞きます。終わったら私の部屋に来てください、ほら行った行った」
手慣れた様子で「犬」の——クラウドの背中を叩き、リーブは局長室から彼を追い出してしまう。
ぱたんと扉が閉まってようやく、シャルアは自分が息を止めていたことに気づいた。っは、と息を吐いた瞬間に、じわりと冷や汗がにじむ。肩で息をする彼女をよそに、ゆっくりと自分の椅子に腰掛けたリーブは、いつもの穏やかな顔でシャルアを見ていた。
「……クラウドさんとは初対面でしたか」
「うん? ああ、そうだな。なかなか会えなかったから」
「わざとずらしていたんですよ。彼は研究者が苦手ですから」
「人見知りか?」
「違うんですけどね」
リーブは苦笑いをその顔に滲ませる。
「あなたの熱心なところも、興味を持ったらとことんまで突き詰めるところも、研究者として大いに好感が持てますが、あの子の前では控えてくださいね」
「わかってるさ。ところで局長」
「なんですか?」
「本物はやはりすごいな! 実に綺麗だし興味深い! 彼と話がしたいんだが後ほど局長の部屋に失礼してもいいかな!?」
「……あなた、私の話聞いてました? ダメです」
——それが、彼女と「犬」との顔合わせだった。
***
実際、シャルアは諦めてなどいなかった。夢中になるとモラルが半分ほど消し飛んでしまう面があることは重々理解しているし、最初に失礼なことを面と向かって言ってしまったことも後悔している。だが、シャルアは彼と話をしてみたかった。
研究対象としての興味ももちろんあったが、何よりも純粋な好奇心が勝った。妹のシェルクと重なるところがあったからかもしれない。ヴィンセントの時もそうだったが、ヒトとヒトならざるものが同じ体に混じり合って生きているのは、いったいどういうことなのか、突き詰めてみたかったのだ。
その日から、シャルアはクラウドと会えるように色々と手を尽くしてみた。WROに来ていると解れば探してみたし、彼と仲がいいという隊員たちにも話を聞いてみた。さらに断られたがクラウドの担当医にも話を持ちかけてみた。だが、肝心のクラウド本人には、いつもタイミングが悪いのかそれとも彼自身が避けているのか、一向に会える気配がないまま、一月が過ぎた。
そして今日だ。大きなミッションに同行していたクラウドが戻ってきて、しかも医務室にいると隊員から教えてもらったシャルアは、早速出かけてみた。
いつもなら紙一重で会えないか、そもそもいなかったりするのだが、その日は幸運だったらしい。医務室には、処置を待っているのかそれとも終わったのか、肩当てもグローブも外した軽装でベッドに腰掛けたまま、ぼんやりと窓の外を見ているクラウドがいた。
「やあ、人見知りの狼君」
話しかけると目に見えてぎょっとされ、そしてすぐに目を逸らされた。シャルアはお構いなしにクラウドの隣に腰掛けると、逸らされた顔をのぞき込む。
「本当に苦手なんだな」
「……何の用だ」
返す言葉も素っ気ないし刺々しい。
だがシャルアは引かなかった。
「君と話がしたかったんだ」
「俺はなにも話したくない」
「別に踏み込んだ話はしないよ」
「どんな話もしたくない」
「そんなに怖がらないでほしいんだけど」
そこで初めて、クラウドがシャルアの方を見た。見た、と言うよりは睨んでいると言った方が近いかもしれないが、正直言ってさほど怖くはない。
(本当に犬みたいだ)
怯えて尻尾を丸めた犬そっくりだと思った。ぼんやりと耳と尻尾が見えてくるような気さえする。勇ましい黒衣の狼犬が、どういうわけかシャルアのことを怖がっているのはどうにもおもしろかった。
「怖がってない」
「君の顔はそう言ってないぞ」
——そして、おもしろいものはもっと見てみたくなる。
「あたしの何が怖いんだ?」
「いい加減にしろ。あんたがシェルクの姉でも、俺は容赦しない」
「そんな顔で言われてもな」
「……あんたは何がしたいんだ」
「さっきも言ったよ」
彼女はさらに距離を詰める。純度の高い魔晄に染められた瞳が煌めき、左右に揺れる様子はとても綺麗だった。今まで何人ものソルジャーの瞳を見てきたが、ここまで綺麗に染まっている目は初めてだ。まさに、星そのものの命の色をしている。
その目を真っ直ぐ見てシャルアは言った。
「君と話がしたいだけだ。何も君の体を調べようってわけじゃない。君の時間を少し貰ってもいいだろうか」
「……」
クラウドは答えない。
だがもう一押しな気がする。
シャルアはうつむいてしまったクラウドの顔をのぞき込もうとした。
「狼君?」
「……寄るな」
「うん?」
「近寄るなって言ってるだろ!!」
次の瞬間叩きつけられたのは、強い拒絶の言葉だった。ただの怒声ではない、悲鳴混じりの絶叫に、思わずシャルアは体を引く。
ここで彼女は初めて、ベッドから立った彼の顔が紙のように真っ白になっていることに気が付いた。貧血でも起こしているかのように血の気が引いている。きらきらと煌めいていた瞳は、ありありと怯えと恐怖の色を浮かべてシャルアを見ていた。
クラウドは逃げ道を探している獣のように後ろに後ずさる。その呼吸はかなり荒く浅い。もしかして本当に具合が悪いのだろうかと、シャルアもつられて立ち上がった。ミッション帰りだと言うから、本人が気づかないままどこぞに怪我でもしているのかもしれない。
「君、本当に具合が悪いのか? 見せてみろ」
「よるなって、言ってる……!!」
「嫌だね。これでも一応あたしは医者だ。目の前の怪我人病人を放ってはおけな——」
「触るな!!」
クラウドの背中が壁に当たった。一瞬絶望の表情がさっとよぎり、そしてずるずると力が抜けるように床に座り込んだところで、どうも様子がおかしいことに気が付いた。
「やだ、……嫌だ、ほんと、やだ……やだ」
できるだけ遠ざかろうとしているのか、クラウドは壁に体を押しつけるようにしていた。戦慄いている唇から漏れる言葉も拙い。
——追い詰められている。
(誰に? ……あたしに?)
研究者が嫌いだと、リーブ局長は言っていた。シャルアは単なる人見知り程度にしか思っていなかったが、そんな生やさしいレベルなどではなくトラウマに近い何かなのではないかと、ようやく思い当たった。
「やだ、やだ……ごめんなさい、やだ、……ごめんなさい、にげない、にげないから、……じっけんは、やめてください……ごめ、ごめんなさい……!」
クラウドは壊れた人形のように、断片化された言葉を繰り返している。
もしかしなくても、今シャルアは、クラウドの嫌な記憶を引きずり出してしまっている。だが、彼を一人にするわけにもいかない。
どうするべきかと決めあぐねていたところへ、背後で医務室の扉が開く音がした。
***
「——本当に何してくれたんですか?」
翌日の昼下がり。
食堂でぶつけられた妹の刺すような一言に、シャルアはただうなだれて「自分でもそう思ってる」と返すことしかできなかった。注文したコーヒーも飲む気すらしないまま、すっかり放置してしまっている。
「言いましたよね、あの犬は研究員が苦手だと。リーブ局長にも言われてませんでしたか? 貴女の耳に鼓膜がないんですか?」
「すまない……」
「私に謝っても困ります」
シェルクはとりつく島もなく、ただもくもくと目の前の食事を平らげていく。今日のメニューはざっと見積もって二人分。毎日毎日よく食べるものだ——と感心しかけて、今はそれどころではない、と思考を元に戻す。
あの後、事態は見舞いにきたリーブのおかげでなんとか収拾できた。頭を抱え、ガタガタと震えているクラウドを落ち着かせたのはリーブだ。部屋の外に出ているように言われたシャルアが再び医務室に入ったときには、クラウドはリーブの手を握りしめ、ベッドの中で静かに眠っていた。
そして、その場で聞かされたのは、あの実験資料の真実と、クラウドの抱えているトラウマだった。
五年の長期に渡る、投薬、切開、照射、そのほか多種多様な人体実験。研究者であるシャルアでも思わず眼を背けたくなるような、非人道的なそのプロセスを、一身に受けてきた骨まで至るクラウドの傷を、シャルアが無理やり抉ってしまったのだと気づかされた。
『おれ、……俺、ようやく、人間になれたのに、なんで、なんで、やだ、……っやだ、いたいのやだ』
『クラウドさん、クラウドさん、大丈夫ですよ。リーブです』
『なんで、なん、なんで、……俺、まだ、えさ、……餌食べなきゃ、エサたべなきゃいけないの』
『そんなものは食べなくていいんです。大丈夫ですから。痛いのも怖いのももうありません。私が一緒にいますから、ね?』
『……っほん、ほんと? リーブ、リーブが、一緒? ずっと?』
『ええ、一緒ですよ。ずっと一緒にいます』
部屋の中から聞こえてきたそのやりとりは、クラウドの抱える闇を、如実に表していた。
「——クビにならなかったのが驚きですね」
フレンチトーストの最後の一枚を口の中に放り込んだシェルクの一言に、シャルアは現実へと引き戻される。
「あの局長が、飼い犬を泣かせた研究員をそのまま据え置きで働かせるとは思いませんでした。人間は変わるものです」
「そ、そこまでなのか」
「そこまでですよ。私の記憶ではあなたが初めてです。これからどんな仕打ちをされるのか楽しみですね。おめでとう」
「……全然おめでとうじゃないし怒ってるよね? シェルクも怒ってるよね? なんだかんだいってあの狼君のこと好きなんだよね?」
「話題をすり替えない」
ぴしゃりと言うシェルクに再度「すまない」と呟く。この妹、姉や一部の身内にはものすごく容赦がないのだ。
「ともかく、落ち着いた頃合いに謝りに行ってください。もちろん、白衣は脱いで」
「わかってる」
「あなた本体を怖がっていたら外側をいくら変えても無駄でしょうが、まあ、がんばって……ください……」
それまで刺々しかったシェルクの口調が尻すぼみになったので、おやと顔を上げると、シェルクはシャルアの後ろをまるで物珍しいモンスターを見つけたかのような驚きの表情で見上げていた。は、とつられて後ろを振り向くと、シェルクが見つめていた人物と目が合った。
「……その、昨日は、すまなかった」
クラウドだった。
一瞬だけかち合った瞳がすぐに反らされてしまう。その表情に滲むのは、やはり怯えと恐怖だ。だが、彼はそれだけでは終わらず、話し続ける。
「ちょっと、気が立ってて……ミッションの後だと、どうしても、なんというか、変になるから」
「……は」
「(は、じゃありませんよむこうにばかり謝らせてどうするんですか!! 鈍姉!!)」
「あいたあっ」
ガッガッと情け容赦なく向こう臑を蹴られ、シャルアはようやく我に返った。あわてて立ち上がると、勢い良く頭を下げた。量の多い髪が一気に乱れるが気にしない。
「あたしの方こそすまなかった!! ずかずかと立ち入るような真似をしてしまって、悪い癖なんだ本当に申し訳ない!!」
「あ、いや、大丈夫だから……頭上げてくれ」
クラウドの落ち着いた声に、シャルアは顔を上げる。彼は相変わらず怯えた様子ではあったが、それでもシャルアと視線を合わせようとしてくれているのが、手に取るように解った。
「本当に、すまなかった。今度時間が取れたら、店に遊びに来てくれ」
「い、いいのか?」
「いいよ。俺の話聞きたいんだろ」
「それはすごく嬉しいんだけど、とても嬉しいんだけど、無理はしなくていいんだからな?」
うん、とうなずきが返ってくる。
「大丈夫。……それじゃ」
「あっああ」
「シェルクも」
「はい」
ばいばいと手を振り、WROの狼は食堂から出て行く。
「……き、嫌われてなかった」
「良かったですね」
その行く先を目で追ったら、にこにこと穏やかな笑顔を浮かべて入り口に立っている、リーブの姿に行き着いた。途中から早足になっていたクラウドを迎えると、そのままごく自然な動きで腰に手を回し、エスコートしていく。そしてその姿が見切れる直前、そのわずかに細められた瞳と眼があった。
「……」
次はありませんよ、そう言っている目だった。
「どっちが狼か解ったものじゃありませんね」
「……同感だ」
「それで、いつ行くんですか?」
妹の問いに、シャルアは目の前のコーヒーカップをわずかに揺らす。すっかり冷めてしまったそれを一口飲んで、そして言った。
「服買ってから行くよ」
白衣以外持ってないんですか、とまるで化け物でも見るかのような目線が刺さったのは言うまでもなかった。