此岸のバーにて

リブクラ / pixiv

「——え、男の経験ないのかあんた」
 きょとん顔とは裏腹に、クラウドの形のよい唇から出てきた一言は、その場に全くそぐわない言葉だった。
 協力を仰いだミッションの完了報告をしにクラウドが顔を出したタイミングと、リーブの仕事の終わりがちょうど重なったため、本部の中に併設されている食堂兼バーに誘ったら、何故かこういった話になっていた。
「そんな驚かれることですかね?」
「……いや、うん、そうでもないな」
「でしょう」
「あんた、上の人だもんな。良い人だし」
 くっくっと喉の奥で笑うクラウドは、酔いもあるせいかすっかりリラックスしているように見えた。勿論それはリーブの方も一緒だ。ビジネスではないプライベートの付き合いは、WRO局長になってからこの方かなり減ってしまった。口を開くのにも注意を払わなければいけない生活の中で、気の置けない友人との会話は、交渉ごとよりもよく口が回る。
「軍ではよくそういうことがあると聞きますけど、本当なんですか?」
「ああ、うん。よくあったよ」
 ——そして、普段の自分では考えられない失言をすることもある。
 クラウドの返答から、リーブは思いも寄らぬ地雷を踏んでしまったのかもしれないと後悔したがもう遅かった。さらに間の悪いことに、その後悔を感づかれてしまったことに気付かれた。
「……そんな顔するなよ、地雷は踏んでないから」
「では、ええと、大丈夫だった?」
「確かに俺はよく狙われた。チビだからな。でも、後で目にもの見せてやれば大人しくなる」
 俺の懲罰記録を見てみればいいとクラウドは笑った。どうやら本当に、徹底的にやり返してきたらしい。確かに、ソルジャー試験の実技や筆記に毎回通るだけの実力を持っているなら、年上の兵士達にもひけは取らなかっただろう。軍に入ってたったの二年で、あの英雄の随伴任務に選抜されたという事実も、十分すぎる裏付けになる。
 なんだ、失言なんてしていないんじゃないか——そう胸を撫で下ろした瞬間に、リーブはまた後悔する羽目になった。
「でも、俺は初めてじゃないよ」
「は」
「……っふふ。リーブのそんな顔、初めて見た」
 結局失言であったことには変わらなかったようだが、クラウドは心底楽しそうにリーブの顔をまじまじと見ている。気にしていないのか、気にならないのか、それとも本当のことではないのか、アルコールでふやけた頭では判断できない。できないが、彼は確実に楽しんでいる、ということだけは解った。バーの仄暗い灯りをきらきらと跳ね返す魔晄の瞳は、悪戯を企てている子供のようだ。一方でゆるやかに弧を描く唇は、どこか艶やかな色を纏っている。そのアンバランスさに、リーブは何故か酷く惹かれた。
「……私も、あなたのそんな顔を初めて見ましたよ」
「酔ってるから」
 にーっと音が聞こえてきそうなほどの笑顔を向けてきながら、クラウドはグラスを傾ける。
「何でだろうな、いつもはあんまり酔わないのに」
「お疲れなんじゃないですか?」
「それもあるかも」
 耳に心地よいくすくす笑いにつられてリーブもまた笑った。そしてちらりと腕時計に目をやる。どうも思わぬ長酒になってしまったようだということに気がつき、懐に手を入れる。
「クラウドさん、そろそろ」
「ん? ……ああ、なんだ、そんな時間か」
「この後どうされます?」
 さり気なくカードをバーテンに渡しながら聞くと、クラウドは少しだけ悩む素振りを見せたが、すぐに笑顔を戻して言った。
「泊まってくよ」

***

 シャワーを浴び終えて戻ってきたら、クラウドは既にベッドの上で丸まって寝息をたてていた。早いものだと苦笑しながら、部屋の灯りを少し落とす。そして、濡れた髪を拭きながらすうすうと穏やかに眠るクラウドを見下ろした。
 ——どうして自分の部屋に招き入れたんだろうか。別にほかの部屋でもよかったはずなのに。
 酔って正常な判断ができなくなっているのかもしれないというのはまず当たりだろう、とリーブはその寝顔を眺めながら思った。なんせベッドが一つしかない部屋に泊まりにおいでと言ったのだ。素面だとまず思いつかない。
(それにしても)
 綺麗な寝顔だ、と思う。周りが騒がないだけ、そして当の本人自身もそう思っていないだけで、クラウドの見目はかなり良い方だ。もう少しでも笑顔が多くて社交的な性格だったら、きっと今以上に放っては置かれまい。染めているわけでもない天然の金髪は珍しいし、今は瞼に覆われている星の命をそのまま注ぎ込んだかのような魔晄の両目もまた、一度真正面から見据えられてしまえば逃れない魔性を宿しているように思える。兵士だった頃の写真は見たことはないが、きっと男所帯の中にあっては恐ろしくうつくしい存在だっただろう。
「……っと」
 観察している場合ではない。
 リーブは己の寝床をどこにしようか思案する。ベッドはそれなりに大きいから、二人寝ようと思えば寝られるサイズだが、それにはど真ん中を占領しているクラウドをいったん起こすかしてどかしてやらねばならない。だが、あまりにも気持ちよさそうに寝ているものだから、起こしてやるのも気が咎めた。
 いっそのこと、この際布団を一枚拝借してソファーで寝たほうが平和的に解決するかもしれない。我ながら良いアイディアだ。どうしてそんなことに思い至らなかったのかと心中で苦笑しながら、クラウドの上にかかっている布団に手をかける。いや、かけようとした。
「——!!」
 声を上げなかったのは奇跡と言えたし、中年の反射神経で下敷きにしなかったのもまた奇跡だった。クラウドに貸してやったスリッパを踏んづけ思わずバランスを崩し転びかけたリーブは、咄嗟にクラウドを押しつぶさないようにベッドに両手をついていた。スプリングが激しく軋んで、それなりに良いところから買ったベッドが少し暴れたが、ベッドの住人を起こすまでには至らなかったらしい。ほんの少しだけ身動ぎしただけで、その目が覚めることはなかった。
 ああ、びっくりした、と胸をなで下ろすと、リーブはそのまま起きあがった。若干軋んだ腰をなでさすりながら、改めて毛布を掴む。
 リーブの骨ばった手に白い手が添えられたのはその時だった。
「——っ」
 ひゅっと喉が鳴る。
 その様子を見て、クラウドは——いつのまにか起きて深く淡い海のような瞳をうっすらと開けたクラウドは、またあの艶やかな笑みを口元に上らせた。
「手、出さないのか。今なら酒のせいにできるぞ」
「……クラウドさん、私は」
「あんたは?」
 外を走り回っているにもかかわらず、日に焼けた様子は全くない指先が、つうとリーブの手の甲をなぜる。その感触に、ようやっと落ち着きかけていた心臓がまた騒ぎ始めた。ぞわぞわと小さくない震えが背中に走るのを感じながらも、リーブはふとした瞬間に霧消してしまいそうな言葉を必死で繋ぎ合わせた。
「私は、……私は、軍の人間では、ないですから」
「……そうだな。あんたは、上の人間だ」
「だから……あなたが嫌がることは、しません」
 魔性の青色がぱちりと瞬いた。ややあって、白い手がすうと離れていく。
「やっぱり、あんたは良い人だ」
「クラウドさん」
「おやすみ、リーブ局長」
 付け加えられた肩書きと閉じていく瞼に、なぜか僅かに心が痛んだが、その理由までは解らなかった。未だにどきどきとうるさい心臓の音を感じながらも、当初の目的をようやく思い出し、改めて毛布に手をかける。
「一枚お借りします。私はあちらにいますから、寒かったら言ってください」
「……うん」
 半分ほどめくったら、布団に覆われたクラウドの体のラインがよりいっそうはっきりと浮き出た。彼はまるで何かを抱き込むように、自分の手を胸元に引き寄せているようだった。そういえば旅の間もこうして寝ていたな、とケットの送ってよこした映像を思い出す。もしかしたらこの寝相は癖なのかもしれない。
「……あんたが、」
「はい?」
 毛布を畳んでしまうその寸前に、クラウドの口からそんな言葉が漏れて、リーブは思わず手を止めて聞き返した。
「なんです?」
 本当に寝入りばななのか、眠気を孕んだクラウドの目が、再びリーブを捉える。一瞬の間を置いて、酒と眠気で掠れた声が、夜の空気を震わせた。
「あんたが、俺の初めてだったらよかったのにな」
「——ッッ」
 それは思わぬ爆弾だった。
 その一言を聞いた瞬間、今までにない衝動が体を貫いた。口の中が一気に干上がり、頭の中がじわじわと沸騰していく。寂しげに笑うクラウドの顔が、薄暗い部屋の中でいやに際立って脳内に刻み込まれていく。
「クラウドさん——私で、ボクで、ええんですか?」
「……あんたこそ、俺が初めてでいいのか」
 二人の距離が狭まる。気がつくとリーブは、先程のようにクラウドに覆い被さっていた。
 仄かに上気した頬、濡れてきらめく星の色、そして枕に広がる金の髪。それらすべてが、リーブの視界の中に、間近にある。
 柔らかく、湿り気を帯びた唇が薄く開いた。
「初めてじゃない俺でいいのか」
 言葉を絞り出すことすら忘れたまま、リーブは衝動に任せてその唇に噛みつく。貪りついたまま、貸してやったシャツを脱がし胸板をまさぐりながら、その体にのしかかる。
 唇を離し、荒くなった息の中、リーブはようやく言葉を思い出したかのように、吐き出した。
「ボクは、いまのクラウドさんを抱きたいです」
 くっ、とクラウドの白い喉が鳴った。それまでシーツを掴んでいた白い両手が持ち上がり、リーブの両頬を誘うように撫でていく。
「……いいよ。抱いて」
 耳元で囁かれる甘い声の半分も聞き終わらないうちに、リーブはその鎖骨に噛みついた。

三度の飯が好き

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