武人と嫁

ゴドクラ / pixiv

 ゴドー・キサラギは武人である。
 ウータイの統治者である前に一人の武人である。ゆえに、人生の半分以上は戦で勲を立て誇り高く質素であることを是とした生き方をしてきた。戦が終わってからは一転このかた長閑な生活をして来はしたが、それでも生来叩き込まれてきたものというものはなかなか変わらない。
 苛烈な戦のただ中にてウータイの総の強聖を継ぎ、終戦まで猛者たちを率いてきたゴドーは、まさに武人の中の武人だった。古きを良しとし歴史を重んじ、多くを語らずにいることが尊ばれる文化の、そのただ中で生きてきた。
 だからこそと言うべきか、彼は、今この瞬間において、どう動けばいいのか全く思いつかなかった。繰り返すがゴドーは武人であるから、並大抵のことでは驚かない胆力も備えている。それに一指導者として機に臨み変に応じて指揮を執ってきたことも幾度となくあった。
 だが、この時ばかりは、猛者の胆力もどこかへ消し飛び、年の割には柔軟だと思っていた思考もまるで用を為さず空回りするばかりだ。
「……っ、ゴドー、……ゴドー……」
 蒼玉と見まごうばかりの瞳に目一杯の涙を溜めた伴侶がゴドーの上にのしかかり、嗚咽混じりでひたすらに彼の名前を呼んでいるまさにこの瞬間、ゴドーは武人でもウータイの長でもない、ただの思考が止まった一人の男になっていた。

***

 ゴドーが今の伴侶と——金の髪と星の色をした瞳を持つ美しい青年と、内々に祝言をあげたのは半年ほど前の話になる。妻を亡くしてから二度と嫁は取らないだろうと考えていた彼が、中年に差し掛かってから二人目の妻を——それも外から来た男を娶ることになったその切っ掛けは、ほかでもないゴドー自身の一目惚れのようなものだった。
 ようなものだった、というのは、一目惚れと言うには若干の語弊があるからだ。最初に顔を合わせたときは、特に何とも、恋慕などと言った感情は覚えなかった。娘が厄介になっている一行のリーダーという、その認識しかなかった。
 ゴドーが予想外に惹かれたのは、ユフィがあの塔を登り切り、跡継ぎに相応しい片鱗を垣間見せたその日のことであった。息を切らしながらも喜ぶユフィに一言、「おつかれさま」という柔らかい言葉とともに向けられたその笑顔に、ゴドーは一瞬で目を奪われたのだ。
 それは、ずいぶん前に死別して久しい妻の笑顔と、まるでそっくりの笑顔だった。勿論顔は似ていないし、目の色も髪の色も、性別すら違う。だが、ユフィに向けられたその表情はまるで瓜二つだった。硬い蕾がほんの少しだけ綻んで、固く暗い殻から僅かに薄桃のやわらかな花弁が覗くようなその笑顔を見た瞬間に、ゴドーは久方ぶりの強烈な恋慕を感じた。
 そして、気がついたらその場で求婚していた。
 ユフィには「頭打った!?」と叫ばれ、一緒にいた熊のような男は目を白黒させ、立ち会いの強聖達は言葉を失い、そして当の本人には笑顔から一転、ダチャオ像が動き出したところでも見てしまったかのような驚きの表情で固まっていた。
 その反応は当然だと、ゴドーは求婚の言葉を口にした直後に思った。結婚相手としては年が離れた相手から——しかも仲間の父親から、娘の母に、そして己の嫁になってくれと言われたなら、驚かない人間はいない。何より相手は男だ。面と向かって拒絶されてもおかしくはなかった。
 だが、最初の大きな驚きをやり過ごしたらしい彼は、青に翠を散らした瞳にぬぐい去れない困惑と、ほんの少しの照れを混ぜて、やってしまった、という顔をしているゴドーに向けて言ったのだ。
「……えっと、友達からじゃだめか」
 その瞬間、ユフィの「アンタも頭打った!?」という悲鳴じみた声が塔の最上階に響き渡ったのは、今でも記憶に新しい。
 「友達」から「恋人」になれるまでは、それなりの時間を要した。そしてその時には、亡き妻に瓜二つの笑顔だけではなく、彼そのものが愛しくてしょうがなくなっていた。ゴドーが珍しくまめに努力をし、葛藤に葛藤を重ねてユフィと連絡を取り合い、再度結婚を将来に据えた交際を申し込んだのは二年前、世界が大きく動きつつあったまさにその時だった。
 大陸で自分の生活をなんとか築いていた彼は、ゴドーの住処、縁側で「俺なんかでいいのか」と、困惑も照れも綯い交ぜになった表情で言った。
「ウータイの男に二言はない」
「……家、エッジなんだが」
「複数持っていても困るものではあるまい。ワシも皆も、すべて捨てて嫁げとは言わん」
「子供もいるし」
「ワシもおる」
「外の人間だし」
「そんな些細なことに構う輩はもうおらん」
 そこまで言ってようやく、彼はあのゴドーが惹かれてやまない笑顔を浮かべてくれた。
「……『不束者ですが、よろしくお願いします』って、言えばいいんだよな」
 その日初めて抱きしめた体は、まさにその髪の色にふさわしい陽の香りがしたことを良く覚えている。
 祝言までは更に紆余曲折があったがそれでも順当に進み、互いの生活や家、しきたりにまつわることなども思いのほかすんなりと決まり、ともに暮らし始めてからも穏やかだが満たされた生活だった。あのときの——三年前の行動が間違っていたと考えたことはなかったし、時間を重ねていくにつれ、間違ってなどいなかったという確信は深まるばかりだった。

 ——その矢先の、この夜である。
 疲れた顔はいくらでも見てきたが、子供のように泣く彼は初めてだったものだから、ゴドーは面食らっていた。圧迫感に目を覚ましたときの驚きも相当だったが、目があった瞬間にぼろぼろと涙が溢れ出したときには、誰何の言葉もなにもかもすべてが頭の中から溶けて消えた。さらに、嗚咽混じりで切なげに呼ばれる己の名前が、今まで彼に呼ばれた名前の中で最も心の根を掴んで揺さぶるようなものであるように聞こえて、しばらく呼ばれるがまま、只ぼんやりとしてしまっていた。
 ゴドーがようやく次の行動を起こせたのは、ひっ、と大きな嗚咽が夜にも映えるその咽から聞こえた時だった。これは尋常ではないと我に返ったゴドーは、寝衣を握るその白い手に、己のそれを添えた。ゆっくりと落ち着かせるように甲を撫でてやりながら、できるだけ穏やかに語りかける。
「どうした。嫌な夢でも見たか」
 きっとそうではない——脳裏によぎったその予感は、力なく左右に振られる首によって肯定された。
「どこか痛いのか」
 これも違った。少々安堵しながらも、では何だ、と頭の中を掻き回す。
「誰ぞに何か言われたのか」
 さらにはこれにも否が返ってきて、ゴドーはすっかり困ってしまった。もう思いつくものがない。
「……すまん、ワシにはもうわからん。教えてくれんか」
 涙をたたえたことでより海の一部をそのまま切り取ったかのような瞳が、ゴドーの目を真正面から捉えた。それまで嗚咽しか出てこなかった唇が震え、そして掠れた声をぽろりとこぼす。
「……ゴドー、俺、いま、……ゴドーに、触ってる」
 言葉の形を為しているかどうかも怪しかったが、なんとかそう言っているのは聞き取れた。だが、聞き取れはしたもののその意図が汲めない。
 だからゴドーは先を促した。
「ああ、触っとる」
「さわ、……っさわりたかった、ずっと、……触りたかったのに、起きてるゴドーに、触りたかったのに」
「……?」
「前みたいに、おれ、ゴドーに、……触ってほしくて、ずっと、ずっと待ってた」
 ひっ、とまた咽が鳴った。
 一度は収まった雫が、またぽたぽたとゴドーの胸元を濡らしていく。その雫の量に比例して、薄い唇から漏れる言葉もどんどん増えていくのがわかった。
「ゴドー、昼間、俺のこと触ってくれないから……そういう国だって、チェホフが言うから、ずっと我慢して、夜まで待ったのに、ぜんぜん、……っ全然触ってくれないから、おれ」
 重ねた手が絡め取られて、ぎゅっ、と強く握られる。予期せぬ感触に滅多なことでは暴れないゴドーの心臓が、胸をも突き破らんほどに跳ねた。手を握られただけではなく、その縋るような声に、今まで必死に抑えてきた劣情が鎌首をもたげて顔が熱くなる。
 だが、次に聞こえてきた言葉に、高揚も劣情も何もかもがすうと消えていくことになった。

「——寂しかったんだ」

 気がついたら、ゴドーはがばと起きあがり白い寝衣に包まれた身体を抱きしめていた。ゴドーに比べたら痩躯ではあるが、健康的に筋肉のついた身体は、突然のことに驚いたのか僅かに強ばったが、構わずに腕の中に閉じこめる。
 ——ゴドーは武人である。戦のことなら長じているが、機微には少しばかり疎い。ウータイの武人は総じてそういうものだ。この前もチェホフやユフィに寄ってたかって詰られたくらいである。
 それに加えて、夫婦が外で睦まじくすることは避けるべきという文化がウータイには根強く存在している。だから、祝言をあげて名実ともに夫婦になってからというもの、ゴドーの振る舞いは、自然と父や統治者のものから夫のものへと変わっていった。恋しくないとも、愛しくないとも思ったことは一度もない。ただ、そのように振る舞うのが当然だと思っていたからだ。
 だが、この腕の中で泣いている伴侶は武人ではなく、ウータイの人間でもない。そして、誰かのものになったことも、ましてやウータイの人間と暮らしたこともない。晴れて夫婦になったのに、以前よりも触れ合う機会が減ってしまったというのは、大陸出身の彼からしてみれば、ひどく心細かっただろう。しかもその理由をなまじ知っているからこそ、口に出せずにずっと今の今まで押し殺して半年耐えてきたともなれば、その辛さや不安は、きっと計り知れないものだったに違いない。
 ゴドーの胸板に顔を埋め、幼子のように肩を震わせる伴侶の背中を撫でてやれば、まだ足りない、寂しいと言う。抑えきれない愛しさに任せて、触れ合った体温をさらに強く引き寄せると、ようやく安心したのかだんだんと嗚咽が収まってきたのが解った。
「……そなたを泣かすまいと決めていたのだがな。寂しい思いをさせてすまなかった」
 ゴドーの心からの謝罪に、伴侶は——クラウドは、ただ小さくうんと頷いたのだった。

***

 チェホフはウータイの五強聖である。
 ウータイを守り、そしてウータイを治めるゴドーとその家族を守るのがその使命だ。むろんその使命には昼も夜もない。唯一解かれる日が来るならば、それは天寿を全うしたその時である。
 その使命は、キサラギの家に加わった人間に対しても帯びていた。ウータイを司る者と共に生きる彼女の定めは、キサラギの家に新たに組み込まれた人間が大陸からきた嫁だろうが、さらにその嫁が男であろうが変わることはない。
 常日頃からよく仕え、危機には参じて戦う彼女は、実際ゴドーが迎えた伴侶のことがどうも気にかかっていた。祝言をあげてからと言うもの、さっぱり元気がないからだ。
 一体どうしたと話を聞けば、昼も夜も寂しいという。ウータイの旦那は総じて「そういうもの」だから、昼間は致し方ないのだと慰めてやりはしたが、夜さえも寂しい思いをさせているとはどういうことなのかと、色恋では息の合うユフィとともにゴドーを問いつめたのがつい一昨日のことである。
 あれからなんとかなったかと、様子を見に朝方屋敷に顔を出してみれば、ゴドーもクラウドもまだ起きてきていないらしい。
「そうかえ。では、妾がお館様を起しに行くとしよう。お伝えしたいこともあるしの」
「ですが」
「よいよい。下がっておれ」
 侍女を追い返すとチェホフはそそくさと寝所に向かった。
「お館様、チェホフじゃ。入るぞ」
 問答無用で襖を開ける。夫婦の寝所に他人が入るのは褒められたことではないが、まれに護衛も、政務の片腕としても動く強聖ならば例外だ。それに、もしまだ改善の余地がないようであれば、クラウドを交えての説教を改めてかましてやろうと思っていた。
 そう、思っていたのだ。途中までは。
「……あれまあ」
 チェホフの狐のような目が部屋の中を捉えた瞬間、ほんの僅かに喜色を滲ませた。僅かに笑声が漏れそうになる口元を袖で隠しながら、開けたときは打って変わって静かに襖を閉める。
 そして、そそくさと元来た廊下を戻り、先ほどの侍女を捕まえると、首を傾げる彼女にこっそりと耳打ちした。
「すまぬが炊事場へ、赤飯を炊くよう伝えておくれでないか」
「……まあ!」
 侍女はにわかに顔を明るくすると、言われたとおり炊事場へと急いでいく。
 その後ろ姿を見送って、チェホフは満足げに自らの屋敷へと戻っていった。

 初めてクラウドと同じ褥で目を覚ましたゴドーが、屋敷の者たちに広まっていたあらぬ話を慌てて揉み消しにかからねばならなくなったのは、それから数十分後のことである。

三度の飯が好き

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