WRO 特別収容プロトコル (5) / リブクラ / pixiv ※流血表現あり
お久しぶりです、なんて優しい声をかけられると、いつもぼろぼろと涙がでてしまう。特別涙腺が弱くなってしまったわけではないのに、リーブに会うとだめになる。抑えきれない感情の波がぶわっとあふれてしまって、どうしようもなくなるのだ。もうすっかり大人のはずなのに、クラウドはいつも泣いてしまう。
そして今日もそうだった。久し振りにその声を聞いたら、何もかも我慢できなくなった。
「クラウドさん、また泣いてるんですか?」
「っぅえ、リーブ、リーブが来ないから、ずっと、……ずっと、しごと、ばっかり、……ばっかで、」
「……寂しい思いをさせてしまってすみません」
ふわりと頭に暖かいものが乗った。優しい重みは間違いなくリーブの手のひらだ。涙のせいで視界がぼやけて、リーブの顔は全く見えないが、それでも安心した。満たされた。
「今日はずっとここにいますから」
だから泣かないでくださいと、目尻から伝い落ちる涙が拭われていく。
その温もりから伝わってくる安心感にただ任せて、クラウドは目を瞑った。
そして、目を覚ましたらそこにリーブはいなかった。
ほとんど日に焼け、かすれてしまっている写真がびっしりと貼り付けられた壁。ふさがれて外が見えない窓。部屋の四隅に付けられた監視カメラ。ベッドの柱にぶら下がっている拘束テープ。そして腕の中のケット・シー。それが彼の視界にあるすべてだった。
おそらく、もう帰ってしまったのだろう。頭をなでてくれた手のひらの感触はまだ残っている。仕事で忙しいから、きっとまた呼び出されたに違いない。リーブは世界に必要な人間だから、ここに来てくれるだけでもめずらしいのだ。
(俺がいいつけをまもれば、また会いに来てくれる)
苦しい薬も痛い注射も全部全部世界のため。リーブが守っている、リーブを必要としている世界のため。だから、我慢すればリーブの仕事が片づいて、また会いに来てくれる。
「ご自分で会いにいかれてもええんとちゃいます?」
ふと、腕の中のケットが唐突にそんなことを言った。リーブがおいていったこのケットは、時折こうして喋るのだ。他の人がいるところでもたまに喋ってくれるのだが、聞こえないよと言われて信じてもらえない。どうやら周りの人にはきこえていないらしいと気づいてからは、クラウドは、ケットが何を言っているのか伝えることを諦めていた。
「寂しいばかりで、つろうないですか」
「……辛くない。リーブのためだから」
「いつも泣いてはるし」
「嬉しいんだ」
「前は、笑てましたよ。クラウドさん」
「……そう。でも、いいんだ」
ぎゅっとその小さな体を抱きしめる。
「いいんだ」
もう一度繰り返すと、クラウドは目を瞑る。
ケット・シーはそれきり喋らなかった。
***
外に出るのを止めたのはいつ頃からだったろうか。クラウドのために作られた建物だと言われたが、彼の行動範囲はいつからか、ベッドが置いてある部屋だけになっていた。今はもう、出たいとも思わない。リーブが来てくれれば外にも出るだろうが、そうそう頻繁に来てくれないのは解っているし、来てくれないなら何もしたくない。それを察した職員たちは、この部屋だけで暮らせるようにと設備を整えてくれたが、基本的にクラウドは日がな一日、職員たちの用事がない日は特に、ベッドの上で過ごしていた。
唯一の趣味だった写真からも遠ざかった。セブンスヘブンから持ってきたカメラは、棚の上で埃をかぶっているが、手に取る気も起きなかった。
「……ケット」
「何ですか?」
「……リーブ、来てくれないな」
何度目になるか解らないやり取りに、ケットもまた何度目になるか解らない答えを返してくる。
「仕事やって、言うてましたよ」
「そうか」
「寂しいですか?」
「……すごく。すごく、さびしい」
声が聞きたい、抱きしめられたい、キスもしたいしそれ以上のことだってしたい。クラウドの心の中の欲求は、会えない日を経る度に、どんどん大きくなっていく。
「わがままかな」
「それでわがまま言うたら、みーんなわがままでっせ」
「……そうか」
クラウドは横になったまま、腕の中のケットをぎゅっと抱きしめた。
「会いたいな……」
口に出すと、それまで押し込めていた気持ちが一気に吹き出す。言葉で形を与えられたもやもやとした感情がどっと湧き出てきて、クラウドはケットを抱きしめた。まだリーブのにおいがする気がした。それがますます辛かった。
「会いたい……あいたい、あいたい、みんなに、会いたい」
「……会いたいですか」
「うん」
ケットの布地を握る手に力がこもる。途端に、いたっ、と悲鳴が上がった。
「あんまり力入れんといてやクラウドさん」
「ごめん」
しわになってしまった生地を慌てて撫でて、今度は優しく抱き抱える。
「……クラウドさんは、ほんまええ子やね」
「リーブが来ないから、まだいい子じゃない」
「せやかてちゃんとごめんなさいできるやろ。優しいええ子ですわ」
だから、と続けたケットの言葉に、クラウドは思わず腕の中の猫をまじまじと見てしまった。
「——うんと悪い子、してみません?」
「……え? でも、そうしたら」
「会えなくなる思てます?」
「……」
「ま、そこは賭けですわ。お仕置きされるかもしれんけど、こんなええ子で我慢してきたクラウドさんが、うーんと悪い子になったら、さすがに気付くんとちゃいますか。クラウドさんがえろう寂しがっとるって」
それもそうかもしれない、とクラウドは思った。クラウドは今までずっと、リーブの言いつけを守ってきた。でも、リーブが来てくれたのは数えるほどしかない。それならいっそ、リーブが慌てふためくようなことをすれば、ここに気てくれるかもしれない。前は風邪気味だとか、足をひねったとか、そのくらいのことですら心配して来てくれたのだ。クラウドの様子がおかしいと解れば、すぐに飛んできてくれる——かもしれない。
「……何しようか」
ベッドから半身を起こし、胡座の間にケットを座らせる。リーブへのいたずらを考えるなんて本当に久し振りで、それまでもやもやと曇っていたクラウドの心はまるでこれから遊びにいく子供のように高揚していた。
成功したらまた沢山会いに来てくれる。二人で隠れてお菓子を食べたり、花畑を散歩したり、ずっと長い時間一緒にいられる。考えれば考えるほど、何でもできるような気がしてきた。
「そうですなあ。クラウドさん、いたずらなんてしはったことないでしょ」
「ない」
「ほんなら、初級者コースや」
ケットの愛嬌たっぷりの頬から生えた髭が、ほんの少しだけ揺れた。
「ちょこっと家出、してみましょ」
***
金糸雀の彼はこの百年、一度もこの建物の中から出たことがないらしい。そしてその百年のうち半分以上、あの『扉』の向こうからも出たことがないという。
「出たくないんだって」
隣を歩く上級職員は、白衣のポケットに両手を突っ込んだままそう言った。少しだけ、実験後の後片付けを手伝ったその帰り道に、早速金糸雀の話を聞いてみたら、「話せる範囲でね」と前置きをしつつも気さくに話に乗ってくれる職員は、十年以上の古株だった。
「昔は頻繁に外に出ていたそうだよ。写真を撮るのが好きだったらしくて、色んな所の写真が貼ってあった」
「へー」
「だから、出なくなったのはたぶん理由があると思うんだけどね。聞いてみたけど教えてくれないんだ」
「それじゃ、俺は会えそうにないですね」
金糸雀のこもっている部屋には、このWRO発足時からの機密情報もある。それを扱えるのは、WROが定める厳格な試験を突破した上級職員だけだ。この試験に通れば、機密を扱う資格を得られるのだが、これがまた恐ろしい難易度だという。
「俺、そういうの苦手ですし」
「うちに入れたんだからもっと自信持ちなよ。目指してみればいい」
「それとこれとは別ですよ」
今は仕事をこなすので必死です、と笑ったそのとき、前を向いた上級職員の足が止まった。
「どうしたんですか?」
「……まさか」
職員は話を聞いていなかった。ただ、その切れ長の瞳を前に向けて、恐ろしいものでも見たかのような顔をしていた。
何だろうと彼もまた視線を前に戻す。
そこにいたのは、
***
そこにいたのは金糸雀だった。
金の髪、魔晄色の瞳、薄い検査着、足首に嵌められた銀色のガジェット、そして片時も離さない猫のぬいぐるみという出で立ちは、仕事でずっと目にしてきた金糸雀の彼の姿だ。特別収容プロトコルに記された姿形と何一つ変わっていない。だが彼がいるこの場所は、小さな檻だったあの部屋ではなく、『扉』の外の廊下だった。
彼は混乱した。なぜ外に出られたのだろう。いや、そもそもなぜ外に出ようと思ったのだろうか。今まで無気力に、ただベッドの上で横になっているだけだった金糸雀が、どうしてロックまで解除して、あの扉から出てきたのだろうか。
「あの……あの人は?」
硬直した思考を引き戻したのは、隣に立っていた新米職員の一言だった。これは収容違反になりかねない。そう判断した彼は、即座にあらかじめ決められた手順に従った。
新米職員を撃ったのだ。勿論、使ったのは非殺傷性の麻酔薬が込められた恐ろしく簡易的な、ボールペンにしか見えないものだったが、新米は至極あっさりと眠りの中に落ちた。
ぐらりと揺れる体を支え、頭を打たないように横にしてやる。記憶処理はまた後だ。
猫のぬいぐるみを抱き締めたまま未だそこに立っている金糸雀を見やる。
「外に出るなって、局長に言われたろう」
「……」
金糸雀は答えない。ただ、怯えたような目で彼を見つめて、その場所に立ち尽くしている。
大丈夫かもしれない、と彼は思った。金糸雀のその様子は途方に暮れた迷子のようで、何の反抗心も感じない。見目は成人の男なのに、その様がなぜかしっくりきすぎて、思わず笑ってしまえるほどの余裕が出てきた。
この様子だと、もしかしたらついうっかり壊してしまった――ということも有り得る。長年続いてきた実験で心は磨耗してしまっているが、それでも百年前の戦役の英雄なのだ。身体能力も魔力も、ただのヒトとは比べものにならない。
だが、要因の検討は今するべきではない。彼のことが表沙汰になる前に、とにかく彼を部屋の中に戻さないといけない。
「部屋に戻ろうか」
連絡用の端末を取り出しながら、金糸雀に向かってゆっくりと近づき、その手を取ろうとした。
だが、伸ばした手は空を切った。彼が後ずさったのだ。
「……どうしよう、ケット」
金糸雀は絞り出すように言った。今となっては珍しい魔晄色の両目は今までにないくらいに見開かれ、彼を凝視している。
「あいつが、あいつらがいる……ここは安全なんだろ、ケット。安全なのに、なんで、なんであいつらがいるんだ」
それはこちらに向けられた言葉ではなかった。ケット、とは彼が腕に抱いている猫のぬいぐるみのことだ。彼はよくぬいぐるみに話しかけていたし、今回もそうなのだろうとすぐに察しが付いた。だが、いつもの茫洋とした様子はそこにはなかった。あるのは、
「リーブも、ここには来させないって、来ないって言ったのに、なんで、ここにいるんだ、なんで」
「どうしたんだい」
「嫌だ……嫌、また、俺、俺、……」
金糸雀は浅い呼吸を繰り返しながら、じりじりと彼から距離を取ろうとした。だが、足がもつれたのかその場に尻餅をついてしまう。それでもなお、必死さすら感じられる様子で、ずりずりと後ずさる。こんなに怯えきった姿は見たことがない。
彼は上級職員用のメーリングリストにメッセージを打ちこみながらも、ゆっくりと金糸雀に近づく。ガタガタと目に見えて震えだしたその目の前に屈み込み、その手首を掴んだ。
「部屋に戻ろう。リーブ局長に叱られる」
ぐい、と引っ張って立ち上がらせる。
だが、金糸雀は立たなかった。そして、逆に引っ張った彼が尻餅を着いた。
「え」
間の抜けた声が彼の口から零れたと同時、肘から先が消えた腕から、血が勢い良く噴き出した。