おとなりさん:引っ越してきたバッツ君 / バツクラ / 文庫ページメーカー
新しく引っ越したアパートの駐車場には、いつもゴリゴリにゴツいバイクが停まっている。
車にはとんと詳しくないバッツではあるが、それが普通に売っているようなものではなさそうなこと、毎朝早めの時間と晩ご飯を食べ終わってしばらくした時間に聞こえてくる、腹には響くが耳に優しいエンジン音の主がそのバイクであること――そしてそのバイクの持ち主が隣の部屋の住人であるらしいことだけは解っていた。
ただ、生活時間がまるで合わないので顔を合わせたことはない。
隣人が一体誰なのか――好奇心と探究心が服を着て歩いていると称されるバッツにとっては、新生活を始めるにあたって現状一番気になっていることであった。あのでかいバイクを毎日乗り回せるのだから、ものすごい体格の野郎なのかもしれない。そう思うのは当然のことだ。むしろそう思わない人間がいるのか気になる。だが、隣からたまに聞こえてくる生活音はそんなに体の大きい人間が出すようなものじゃないようだったし、大家さんも「お隣さん? そんな大きい人じゃないねえ」とか言っていたから、いったいどんな人がお隣さんなのか、バッツの好奇心は今のところ順調に成長中だ。そして小さくなる気配もなかった。
(挨拶もしてないし)
生活時間がかぶらないというのはそういうことである。バッツが起きたらもうエンジン音は遠くに行こうとしているあたりだし、晩ご飯を終えて風呂でも入るかと服を脱いだあたりで戻ってくる。つまりバッツが捕まえられるような時間ではないのだ。
引っ越しの挨拶にかこつけて顔を拝もうというバッツの企みは、もうほとんど失敗したようなものだった。
だが、転機が訪れたのは、挨拶用にとっておいた菓子の賞味期限がそろそろ一週間になったあたりだった。
その日はただだるかったという理由で、晩ご飯の時もバッツにしては少々のんびりしていた。どうせ明日のバイトは昼からだしという気持ちがあったせいかもしれない。
ちょうど大きなあくびをしたそのとき、バッツの耳に聞き慣れたエンジン音と、リズミカルに階段を上る音が聞こえた。
「ふぁっ」
ばたん、と隣のドアが閉まった瞬間までぼーっとしてしまっていたバッツは、思わず変な声を出してしまった。慌てて菓子の袋をひっつかんだ。ただふと見た鏡に映っていた自分の頬にケチャップがひっついていたので出遅れた。ごしごしと顔を拭いている間にカラカラと向こうのベランダが開く音が聞こえてきて、ええいままよと玄関に向かいかけた足をそのままベランダに向ける。足下の服やクッションに足を取られながら窓に手を掛けからりと開けると、その勢いのまま外に顔を出した。
「あのっ隣のものですけど」
「ん」
視界の向こうに漂う煙と、夜の黒にほんのりと灯った蛍のような光に、用意していたはずのバッツの言葉はピタリと止まった。
「……ああ、悪い。煙は気をつけてるつもりだったんだが、ついたか?」
固まったバッツをしばらく見ていた隣人は、男らしい所作で咥えていた煙草を口から離す。多分洗濯物に臭いがついたかを気にしてくれているのだろうが、バッツは正直そんなことはどうでも良かった(し、実際今までついていなかったから全く気にしていなかった)。
バッツの言葉を根こそぎかっぱらっていったのはその隣人そのものだった。確かに大家さんの言うとおりゴツい男ではなかった、むしろその逆だ。月の光を淡く含んだチョコボみたいな金髪も、見たことの無い不思議な色をした瞳の色も全部そのまま魅力にできるような、一言で言うと美青年が、黒いライダースのまま物憂げに煙草をふかしていたら、さすがのバッツだって何を言おうとしていたのか忘れようというものである。
「……お隣さん?」
「わっあっえっと」
バッツの意識を現実世界に引きずり込んだのはその隣人の一言だった。
「あのその、ずっと挨拶できなくて、あっ洗濯物は全然オッケーだったから気にしなくて良いから、そのこれ」
慌ててかき集めた言葉の切れ端をなんとかつなげながら、間仕切り越しにお菓子を渡す。夜でも白いとわかる手がスッと伸びて袋をつかんだ瞬間、バッツの手にちょっとだけ指先が触れて、またも台詞が飛びかけた。
「よかったら食ってくれ、バイト先のお菓子なんだけど」
「ああ、……そうか、ありがとう。こちらこそ挨拶してなくてすまない。バイクの音とかも」
「いやーぜんぜん! ぜんっぜん大丈夫だから!! それじゃこれからよろしくな!!」
おやすみとなんとか勢いで言い切って、相手が返してくれたのを確認してなんとか部屋に駆け込む。ただふと思い出して慌てて「早めに食ってな!!」と顔だけ出して言い、今度こそ窓を閉めて鍵を掛け、そしてずるずるとへたりこんでからようやく、ふへぇ、と溜めに溜めた息を吐き出した。
「……すっげびっくりした……」
確かに大きい人じゃなかったけどさあ、とそのまま横にこてんと転がる。
やたらドキドキとうるさい心臓は、少し横になったくらいで大人しくなる気配がまるでなく、結局寝るその直前まで騒がしいままだった。