ハスタルーヤと自機とキンちゃん
トラウマスイッチ中にハスタが見舞いに来た
書類を整えて封筒に入れ、朝の内に買っておいた花を花瓶から取り出す。元のようにリボンを巻き、茎の部分を湿らせた布で包んでしまうと、ハスタルーヤは小隊付きの軍曹に「少し出てきます」と伝えて外へと出た。
隊舎を出て向かう先はウルダハだ。何度経験しても慣れない転移魔法の浮遊感を経て、足を地に着けた瞬間に漂ってくるスパイスの香りや商人達の呼び込む声を浴びながら、巨大なエーテライトに触れる。
再びの浮遊感を越えた先は、うってかわって静かな空間だった。先程の賑わいは石の壁のむこうから僅かに聞こえる程度になってしまった仄暗い空間を、目的地に向かって歩く。
「ああ——どうも、お疲れ様です」
フロンデール薬学院の扉を抜けたとたん、目の合った職員が声をかけてくれた。それに会釈を返しながら、薬学院の奥へと向かう。
いくつもの扉を通り過ぎ、いくつかの曲がり角を曲がった先は、ひときわ静かな区画だった。先程までの廊下にあったような部屋の中を覗く大きな窓などはなく、扉も壁も厚いものでできているから、部屋からの音がまるで聞こえてこないのだろう。
ハスタルーヤは静かな廊下の奥へと更に進んだ。この先に目的の人間が、いつも長い足を放り出すようにして座っている――のだが、
「……あれ」
扉のそばには人影は見えず、ただ椅子が置いてあるだけだった。
まったく自分の仕事を放棄してどこをほっつき歩いているんだあのシェーダー野郎は、という悪態が口から出かけたが、あいつも人間だし席を立つ事もあるだろうと考え直す。なにより今は昼時だ、もしかすると食事を摂りに行っているのかもしれない。
はー、と溜息を吐き、椅子の上にあった本を持つと簡素な作りの椅子に腰を下ろす。
だが、すぐにそわそわと腰を上げてしまった。そして、脇の扉に視線を遣る。
「……」
落ち着かない理由はこの扉の向こうにあった。正確には、いる、と言った方がいいのだろう。
——隊長が倒れたと聞いたのはしばらく前のことだ。
その日からずっと、隊長はこの部屋の中にいるらしい。らしいというのは誰も隊長に会えていないからだ。この部屋の前には何故かいつもあのシェーダーの青年やルガディンの女性がおり、隊長の代わりに用件を聞き、具合を見て、必要に応じて本人に伝えに行く。今日のように、どうしても本人のサインが必要な書類があったりするとそのまま預かって、次の日記入済みの物を返してくる。
人に会わせることで体力を消耗させたくないという方針は解っているものの、それにしたってなぜ不滅隊が、という燻りは、ハスタの胸中に残り続けていた。
(部下なのに)
立ったまま、分厚い扉をじっと見る。
(自分を差し置いて、なんであいつが)
部屋の中から音は聞こえてこない。眠っているのかもしれない。
それなら話はしないし、そばにこの封筒と見舞い用の花を置いていけばいい。一目見るだけだし、起きていたとしてもすぐに帰ればいい。何も負担をかけるようなことをしなければいいのだ。更に癪ではあるけれども、あのシェーダーの青年の手間も減らせる。一石二鳥だ。
ハスタルーヤは扉の小さな窓を覗く。硝子越しに見えたのは明るい部屋とベッド、そして布団に埋まるようにしている緑色の髪だった。身動きはないからきっと眠っているのだろう。そう考えたハスタルーヤは、ドアノブに手をかけた。
「ハスタです。入ってもよろしいでしょうか」
一応小さな声で聞いたがやはり返事はなかった。できるだけ音をさせないように、ゆっくりと身体を滑り込ませる。ベッドへ近づいてもブランケットから覗く頭は微動だにしない。きっと深く眠っているのだろう。
だが、手に持った書類と話を近くの机に置こうとしたところで、その予想は裏切られることになった。
「——ひっ」
かさ、という紙の触れる僅かな音につられるようにして、掠れた息混じりの声が聞こえた。もしかして起きているのだろうか。それにしては動かないし、先程の呼びかけにも返事はなかった。それに、よく聞いてみると呼吸も速い。もしかして具合でも悪いのかもしれない、そう考えて顔を覗き込もうとした。それだけだった。
そう、ただそれだけだった、触れようともしていなかったのに、ベッドの中の彼は思いも寄らない反応を示した。
「ひ」
再び引きつった声が聞こえ、ずり、と布団の中の身体が動く。
「えっ」
ブランケットから吐き出されるように、ぼてっと壁とベッドの隙間に落ちた病衣を纏った身体は、ひどく痩せてはいたものの確かに隊長だった。しかし彼は、ぶるぶると震える腕で頭を抱えうずくまってしまう。
「隊長――」
「ひぅ、ご、ぁ、す、すみませ」
震え、蹲る背中から聞こえてきたのは、かつての彼からはまるで聞いたことのない声だった。泣いているとも、笑っているようにも聞こえる細い声は、ただひたすらにハスタルーヤに許しを請うていた。
「いや、いや、いや、ゆるして」
「隊長」
「ひっやだ、やだやだやだ!! やだ、あ、あ——」
これは尋常ではない。
とりあえず落ち着かせないといけない。そう思ったハスタルーヤは、ひとまず彼のそばに近づこうとベッドに足をかける。
「——おいこらテメェ」
だが、それは低く抑えられた声に止められた。
振り返るまもなく、首のあたりをグンと引かれる。遠慮も何もなく込められた力に逆らうこともできなかったハスタルーヤは、ベッドから落ちて無様に尻餅をついてしまう。
「お前」
「黙ってろ」
入れ替わるようにベッドに乗り上げたのは、先程まで居なかったはずのシェーダーの青年だった。彼は明らかな怒気を湛えた金色の瞳でハスタルーヤを一瞥すると、それでもいつものような怒鳴り声はなく、震える身体のそばへと静かに下りる。そして、ますます小さくなる背中の後ろに屈み込んだ。
「おう、もう大丈夫だ」
直前のそれとは打って変わって優しげな声だった。
「う、ぇ、きんちゃ、きんちゃん……?」
「おー」
「は、き、きんちゃん、ご、ごめ、なさ」
「謝るこたねえよ」
「せっ、せっかく、たべた、たべれたのに」
「吐きそうか?」
「う」
言葉は途中、別の音に飲み込まれた。げっ、げっ、と短く繰り返される音に慌てて立ち上がると、ベッドと壁の隙間に丸くなる背中が小刻みに震えているのが見えた。
「隊ちょ」
呼びかけた言葉は再び金色の視線に遮られる。ぐ、と黙ったの見届けると、再び優しげな光に戻った。
「すっきりするまで出しちまえ」
「ごめん、せっ、つくって、もらった」
「気にすんなよ。明日また頑張りゃいいから」
震える背中を撫でてやりながら、濃い青灰色の頭がハスタルーヤを見上げる。僅かな動きは「外に出ろ」と言っていた。
「……っ」
拳を握り締める。だが、反論などできるわけもない。
ハスタルーヤはまた静かに部屋を出ると、音を立てないように扉を閉める。
「くそっ」
分厚い扉の向こうから僅かに聞こえてくる声を聞きながら、彼はただ唇を噛みしめることしかできなかった。
***
そろそろ夕暮れにさしかかろうかというところだった。
余程怖かったのか、後始末をしてからもずっと扉のことを気にしてはしきりにベッドから下りようとしていたので、ここ最近使わずに済んでいた香薬を嗅がせて寝かせたのが昼過ぎ頃。律儀に外で待っていたゼーヴォルフ野郎を一発殴り飛ばしてから、一応伝えられる範囲で今の状況を教えてやり、反省したのを見届けて本来の用件を受け取ったのが、寝入ってからしばらく後のことだ。
しょぼくれた背中を見送って、いつものように本を広げて少し読み進めたあたりで、扉の奥から掠れた声が聞こえてきた。
目を覚ましたらしい。本を閉じ、扉越しに「入るぞ」と声をかける。
「ん、……キンちゃん」
「おう」
こちらのことが解っているのを確認して扉を開ける。
緑頭は横になったまま、ぼうっとした目でキーンのことを見ていた。
「具合どうだ」
「……だるい……」
吐いたせいか声が掠れている。ただこちらの言うことは解っているらしい。そばの小さな椅子を引っ張ってきて腰を下ろす。
「頭は? 痛えか?」
ゆっくりと首が横に振られた。大丈夫らしい。
「そっか。痛くなったら言え。吐き気は?」
「だいじょうぶ」
「上出来」
頭を撫でてやるついでに、目にかかった髪をのける。されるがままにしばらくとろとろと瞬きを繰り返していた緑頭だったが、やがてまた、ぼうっとした視線をキーンに合わせた。
「……きんちゃん」
「ん」
「今日なんにち」
「あ?」
突然なにを聞いてくるんだと思いつつ、壁掛けのカレンダーに目を遣って日付を答える。すると緑頭はまた掠れた声で「そっか」と言った。
「うけとり、いかないと」
「受け取り? なんの?」
「たのんでたかみが来るんだ」
「かみ、……ああ、紙か。家に届くんならあのおっさんが取っとくだろ。任せりゃいい」
「ううん」
「あ? 違うのか」
「みせにくるから……」
どこの店だ、もしかして注文した店に取りに行くのだろうか、それならレジーに代わりに行かせりゃいいんじゃないか。
だがそれを口にする前に、緑頭が言った。
「俺のみせ」
「……うん、そうか、それならオレが行ってやる」
「ごめん……」
「いいって。だりいなら兄さんが来るまで寝とけ」
ん、という短い返事とともに、瞼がとろとろと落ちていく。骨の感触がやたらと目立つ手を呼吸か落ち着くまで撫でてやり、深い寝息になってからそっと離した。
香薬を使ったあと、まれにこういうことがあるのだ。過去と今がごちゃごちゃになって、冒険者と商人がまぜこぜになってしまう。俺の店に紙が来るというのはきっと冒険に出る前の話だろう。緑頭が倒れる前、まだ元気で喧しかった頃、自分の店で本やら符やらに使う紙を扱っていたと聞いたことがある。
この様子だと、あのゼーヴォルフが持ってきた仕事は明日以降に回したほうがよさそうだ。ずれてしまった布団を直すと、キーンはまた本を開く。
病室にしては明るすぎる部屋に、ただ紙を繰る乾いた音が響いていた。