カルト教団騒動後、ちょっと情緒が育ってたおっさんとキンちゃんと自機
自機は寝てます
「ヘイヨー。にーさんいる?」
陽の良く当たる部屋に足を踏み入れながらいつもの挨拶を口にする。もう何度目だろうか、少なくとも片手の指は超えているだろう。すっかり慣れたものだ。
「あーいるね、よかったすれ違いになんなくて。今日も来たよ」
部屋の中で一番大きな家具であるベッドの上に目的のものを見つけると、返事を待たずにずんずん近づく。手に持っていた着替えの入った紙袋を足下に置いて、部屋の役目の割には造りのしっかりした木製の椅子を引き寄せて腰掛けたら、羽毛のたくさん詰まった布団をめくった。
いつもなら「やめろ」と文句を言われるのだが、今日ばかりは——いやここ数日は何もない。文句どころか小言も冗談もくだらない下ネタも、この目の前で背中を向けて、静かに呼吸を繰り返している人間からは飛んでこない。来るわけがないのだ。
——目を覚ますことはないだろう。
万が一覚ましたところで、前のような生活が送れるかどうかは解らない。
数日前、この病室で、キーン達の兄から聞いた言葉だった。とある事件の捜査中、犯人達に捕まってしまっていたキーンと彼が助け出されてから、数時間ほどが経ったあたりのことだ。キーンはすぐに目を覚まして、あとは薬が抜けて体力が戻るのを待つだけとなったのだが、こちらはそうはいかなかった。
「エーテルがぐちゃぐちゃなんだ」
二人を前にしてカームは言った。言いづらそうに、何度も何度も躊躇って、言葉を探した結果、出てきたものがそれだというのは、カームを見ていてよくわかった。
「揺らぎも消耗も酷いけど、そもそもエーテルが人のかたちになってないんだよ。彼とエギ以外のエーテルが入り込んでるし、それがぐちゃぐちゃに混ざってる。たまたま身体が変質していないのは召喚士だからかもしれないけど、とにかく——」
「悪い兄さん、結論から言ってもらえるか。オレらにも解るように」
傍らで、貸し出された寝間着のまま、レジーに支えられて聞いていたキーンが呻くように聞いた。
カームは一瞬だけ息を詰まらせると、大きな身体を小さく縮こまらせるようにして目を伏せ、そして言った。
「彼が目を覚ますことはないだろう」
それから数日。
身体は生きているし、本人のエーテルも霧散してはいないから何か打開策があるかもしれないと、彼はこの一室に寝かされ続けている。寝返りもままならないから、用事のついでにシルヴァがこうして体勢を変えてやったり、職員の人に変えてもらったりしているのだが、やはりカームの言ったとおり触っても話しかけても反応はない。
ないのだが——何故か毎回、シルヴァの口は良く回る。
「にーさんこのパジャマ着せてもらえて良かったねえ、昨日より随分あったかくて楽になったんじゃない? ふわふわだしいいよねー、あっ今度さあもう一着買わない? 洗濯してるときふわふわじゃないの着てんの嫌だから買いに行こうよ。うちの弟なら店知ってると思うしさぁ。あ、店で思い出したんだけどねー今日のドリンクはお店のじゃなくて師匠お手製なんだよ、すごくない? よくわからないけどいろいろ弄ってたらできたから持ってって使えってさ、俺これ飲んで大丈夫かな? いや俺がだめだったらにーさんも」
「テメェ」
「ひゃあ」
だが、突然割り込んできた声がシルヴァの一方的なお喋りを止めた。
「来てたんなら声かけろや」
「あーごめん、キンちゃん本読んでたから」
「んなこた気にしなくていい」
幾ばくか眠そうな金色の瞳は、いつもよりも重ための歩みで部屋に入ってくる。椅子を寄越せと視線で言われた気がしたのでさっと譲ったら、キーンは「はー」という溜め息と共にどっかりと腰を下ろした。
「まだ怠い?」
「だりい。薬は抜けたけどきっついわ。メシも少ねえし」
「それは病院だからしょうがないよ」
話しながら、力の入っていないただ呼吸するだけの身体をもみほぐしてやる。普段より随分体温が低いのも、エーテル云々の影響なのかもしれない。詳しいことはよくわからないが、前に言われたとおり強ばっているところをさすってやったり、関節をゆっくり曲げ伸ばしして凝り固まらないようにしていたら、その様子を見ていたキーンがまた「なあ」と口を開いた。
「よく出てくるよな、ネタ」
「ネタ? なんの?」
「話の。テメエずっと話しかけてんだろ、こいつに。返事もねえのによく出てくるなって」
「あー、なんでだろうね」
自分でもよくわからない。毎度毎度こうだ。何をしても起きない相手だし、夢を見られているかも危ういのに、聞こえているとも解らない話をしている。
冷え切った手を揉んでやりながら、シルヴァは少し考えて口を開いた。
「話しときたいことまとめて出してんのかも」
「ふーん?」
「キンちゃんの時は何も言えなかったから」
ん、とキーンの顔が一気に苦いものになった。もう過ぎたことだからそんな顔をしなくて良いのに、とも思うが、彼の中ではどうやら違うらしい。まさに目の前で眠っている人間に、今まで見たこともないぐらい激烈に叱られていたことを思い出すと無理もないが。
「聞こえてるかはわかんないけど、本人が目の前にいるし、なによりまだ生きてるから、なるだけ思ったこと全部言っちゃおうって」
強いて言うなら自己満足。それが一番近いかもしれない。
「ヘンだよねえ」
「何が」
「前はこんなんじゃなかったのにさ」
死ぬやつは死ぬやつだから声をかけたって無駄、生き物であれば誰しもが自分の目の前から居なくなるし、自分だって誰かの目の前から消えるものだ。だから、生きているか死んでいるか解らない人間に声なんてかけたって、返ってくるものは何一つない。今までの自分だったらそう考えて、世話になったよしみで顔を見に来る程度でこんなことはしなかっただろう。しかし、この口は勝手に動くし、手だってそうだ。
「なんだろうね」
「オレ様に聞かれてもな。心境の変化ってやつじゃねえの」
「そうかな」
「知らねえよ」
「そうかあ」
一通りほぐし終え、もこもこふわふわのパジャマに包まれた腕を離す。床ずれしないように体勢を少し変えてやって布団を整えたら、残る用事は一つだけだ。
「キンちゃんこのままいる?」
「いる。兄さんか?」
「呼びに行ってくるから見ててほしくて」
「いいよ、オレ呼んでくる。動きてえし」
「えっほんと? ありがとね」
よっこらせ、とキーンが立ち上がる。
ゆっくりと外へ出て行く音を聞きながら、シルヴァはこちらを向いている寝顔を——いつもと同じ、ただ決して動くことのない寝顔を見る。
「……なんなんだろうね」
ぽつりと落とした独り言に、答えは返ってくるはずもなかった。
家具をすっかり寄せてしまった部屋の中は広々としていた。
ものが増えることで心地よい狭さになっていたけれど、一番小さい家とはいえ、結構広さがあるものだ。どこかに腰を落ち着けようとしたものの、椅子はドアに立てかけてしまっていたし、ベッドは窓を塞いでいるから、結局諦めて剥き出しになった木の床に座る。
外は何かの足音が沢山聞こえてくる以外、風も風車の音もせず、とてもしずかだった。夜なのかもしれないが、昼でもこの回りは閑静な区域だからもしかすると昼なのかもしれない。もうここから出られない自分にとってはどうでもいいことだ。
外は危ないからなかにいなさい、自分たちが出て行ったあとは窓も扉もしめて二度と外に出てはいけない、そう言われてぽつんとひとり残された。せっかく整えてもらった家具をいろいろ動かすのは気が引けたけれど、そうしないと危ないのだからと自らに言い聞かせてあくせく働いたら、結構立派なバリケードができたと思う。
ただ、すごくしっかりと戸締まりをしてしまった。出て行ったものは戻ってこれるんだろうか。それともずっと一人なのだろうか。それに、外の足音もどんどん増えて、近づいているような気がする。窓や扉から聞こえてくるかりかりという音は、なにかがひっかいている音にも聞こえる。
(だいじょうぶ)
すくみそうになるのを我慢して膝を抱える。
いつもここは安全だった。だから今もだいじょうぶ。何も入ってこない場所だ。だからきっと大丈夫。かりかりがごつんごつんになっても、どすんどすんと部屋に震えが伝わってくるようになっても、絶対に入ってくることはない。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ、だいじょうぶ)
胸の内で繰り返しながら丸くなっていたら、ふと突然あたたかいものが肩にかけられた。顔を上げてみれば、朱い羽根があしらわれたふわふわとした毛布のようなものが肩にかけられている。こんなものあったっけか、と疑問が湧き出てきたが、触れていたら不思議と気持ちが落ち着いてきたので、きっと悪いものではないだろうと判断して包まった。
ぽかぽかと、日だまりのような暖かさが伝わってくる。この毛布自体がほんのりと熱を持っているようだ。座っているのも疲れてきたので、包まったまま横になったら、とたんに眠気が襲ってきた。
どうせ誰も来ないのだ。ずっとこのままならいっそ寝てしまった方がいい。起きたら何もかも終わっている。こんな怖いことも、寂しいことも、きっとすべて終わっている。
暖炉の温もりにも似た暖かさに包まれながら、恐怖を追いやり、とろとろと意識を手放した。