帝国if 元気になってしばらくしてから
ケンカ(?)できるようになったよ
「ダメだ」
そう言った途端、期待にキラキラと輝いていた緑の隻眼は、途端に不満の色を露わにした。
「なんで」
「別に必要ねえだろ」
「俺には必要あるの」
「どんな? 別に今で満足してるし、今までそういうのなかったろうが」
「なかったけど! やりたいんだよ!」
「ダメだ。危ねえしオレが落ち着かねえ」
「――っキンちゃんのわからずや!!」
子供のような言葉をこちらに投げつけると、彼はぷいと顔を逸らす。その勢いのまま扉に向かい、普段の彼にしてはかなり強く扉を閉めた。
ばたんと空気を震わせる音に思わず瞬きをし、再び目を開けたときには、先程とは打って変わって静かにたたずむ扉がある。
やっちまった、と後悔してももう遅かった。
「…………言わねえぞ」
「やだ、何も聞いてないのに!」
後ろからぱたぱたと近づいてきていた隠しきれない好奇心が滲んでいる足音の主は、途端に唇を尖らせた。
回り込んできたのはエトワールだ。心配四割、興味が六割といった様子で瞳を輝かせながら、猫か何かを思わせる角度でキンバリーを見上げてくる。
「言わねえからな」
「えー? 言ってくれたら何か力になれるかもしれないよ?」
「なった試しがあるかよ」
「一昨日」
「………………」
一昨日のことを思い出し、チッ、と舌打ちを一つ零す。確かにあの時は不本意ながらエトワールのアドバイスが役に立った――一週間も経たないうちにこうして機嫌を損ねることになってしまったのだが。
「で、どうしたの? また何か怒らせるようなことした?」
「…………働きに出てえって言い出した、あいつが」
キンバリーの視線が動く。それにつられてエトワールの瞳がテーブルの上のチラシをとらえた。食の都リムサ・ロミンサの中でも名だたる名店、ビスマルクで大量に求人を行っているというチラシだ。
『ここで働いてみたいんだ。そしたらちょっとずつでもお返しできるから』
こういう仕事をしたことがないから不安だけど、とチラシを置いて続ける彼の翠の目は、それでも前向きな色を浮かべていた。
「でもやめろって言ったの?」
「言った」
「なんでよ」
「あいつを知ってる奴がいたら何されるか解らねえだろ。それにそもそも金貸したつもりもねえ」
貸し借りなんて考えていない、全て捧げるつもりでやってきた。だからそんなことはしなくていいのだ、安心できるところで穏やかに暮らしてくれればいいと常々言ってきたのだが、伝わりきっていなかったらしい。
「重たッ」
だがそれを聞いた妹はごくシンプルな単語をぶつけてきた。鼻に皺まで寄せている。
「あ?」
「重たいって言ったの。ヒラキさんのこと一生家から出さないつもり?」
「いやあいつが出て行きたいって言ったら」
「好きなところに行けばいいって? 冒険者ギルドにも登録してないし働きにも出さないのに行けるわけないでしょ」
「オレが金出すから——」
「それはヒラキさんが望んでることじゃないんじゃない? あとそれも重たい、やばい、めりこみそう」
エトワールはダイニングの椅子に腰を下ろす。
「兄さんとヒラキさんって友達なんでしょいまんとこ」
「……まあ、そうだ」
言いたいことは多々あるが、言われていることに間違いはないのでひとまず同意する。
「ヒラキさんは友達に迷惑かけたくないんだと思うよ」
「迷惑って」
「兄さんはそう思ってないのは知ってるし、もちろんわたしだっておんなじだよ。兄さんの気持ちもわかる。けどこういうのって本人の気持ちだからさー」
とにかく追っかけて話聞きなよ、と長い指が机の上のチラシを拾い上げる。差し出されたそれを受け取ると、キンバリーは廊下へ続く扉を開けた。
そして、リビングに一番近い部屋の前に立ち、一呼吸置いて扉を叩いた。
「入ってもいいか」
「…………いいよ」
乱暴にならないようにゆっくりと扉を開ける。案の定というかなんというか、ベッドの上に控えめに盛り上がった布団の丘が見えた。
「その、近くにいっていいか」
もぞもぞと丘が動く。嫌だという意思表示は感じられなかったので、扉を閉めて中へ入り、ベッドに腰掛けた。
「……」
「……」
気まずい。だが妹には話してこいと言われたし、自分もその必要性は十分に感じている。
「なあ」
「あのさ」
意を決して出した言葉は、奇しくも相手のそれとかち合ってしまった。そっちから、いや俺はいいからキンちゃんから、という譲り合いを経て、結局折れてくれた布の塊——ヒラキがもごもごと動いた。
「あの、さっき、ごめんね」
「いいんだ」
「……ずっとお世話してもらってるから、何かお返ししたいって思ったんだ」
だから貸したつもりはねえ——とさっきと同じ言葉が口をついて出かけたが、なんとか飲み込んで先を促す。
「あと笑わないでほしいんだけど」
「笑わねえよ」
「おとといさ、俺のご飯美味しいって言ってくれたでしょ。それがすごく嬉しくてさ、兵士以外でもキンちゃん達の役に立てるんだなって思ったら、やりたくなっちゃって。子供っぽいよね」
「…………」
「でも、よく考えてみたらキンちゃんの言うとおりだなって。すごく有名なお店だし、俺を知ってる人が来るかもしれないから、行かないことにした」
「…………そうか」
もぞ、と布団から頭が生えた。横向きのまま片目がこちらを見上げている。申し訳なさと、恥ずかしさと、そしてほんの少しだけの諦観が混じった色が僅かに震える。
「怒鳴っちゃってごめん。ひどいこと言った」
「いいんだって、オレも言い過ぎた。ごめん」
一瞬だけ迷って、前髪を指で梳く。気持ちよさそうに細められた目を見遣り、気まずさが宙に溶けたことを感じ取る。
だがこれでいいのだろうか。もう片方の手に未だある紙の感触がキンバリーの心にひっかかった。キンバリーの目に届かないところで何かあったら守り切れないし、今度こそ安心して暮らせるようにすると心に決めたからには、そういう機会はできるだけ減らしてやりたい。却ってこいつを縛り付けているんじゃないのか、という疑問はあるが四六時中一緒にいるわけにも——
「——あ」
「え?」
突然口をついて出た声に、大人しく撫でられていた緑の頭がこちらを見上げてきた。
「わかった」
「え、な、なにが……?」
いっぱいに疑問を湛える緑色に、キンバリーの満面の笑みが映り込む。
——やがて、リムサ・ロミンサの美食の頂点、レストラン・ビスマルクに新たな従業員が増えた。未来の料理人の確保と店の成長も兼ね様々に採用された人材の中には、客商売にしては珍しい隻眼の従業員もいたと伝えるのは、海都の庶民派グルメ雑誌だ。より多彩になった食に惹かれるように客足が増え、中には珍しい黒影の民が常連客に加わったとひそやかな噂が伝わるようになったのは、それからすぐ後のことだった。