帰ってきた時にはすでに灯りが落とされていた。ただそれはいつものことだし、追い出されているわけではない。先程までの火照りを芯に残したまま植物のカーテンをくぐり、慣れた手つきで錠前を開けて静かに扉を押し開けた。
「ただいま」
 ほとんど息と言ってもいいようなほどに小さく呟いたのに、階下から微かなとてとてという足音が二匹分聞こえてくる。やがて目の前にちょこんと座ったのは、大小の小さな影だった。
「すごいねー聞こえたの今の」
 すりすりと身体を擦り付けてくる二匹の猫をそれぞれ撫でてやると、ごろごろという声に追いかけられながら上着を脱ぎつつ階下へ行く。奥の方でこんもりと盛り上がっている布の塊を視界の端に捉えながら服が仕舞われているタンスを漁り、おそらく家主のものであろう寝間着を引っ張り出すと適当に着替えた。むこうでシャワーは浴びてきたし匂いはもう落ちているから問題ないだろう。
 今日は何かと疲れた一日だった。仕事がハードだったし、仕事終わりの男もなかなか離してくれなかったからだ。搾り取って寝かしつけて抜け出せたのがついさっき、月がてっぺんをまわったころである。体力があるのはいいがしつこいのはちょっといただけない、今後は連絡を控えた方が良さそうだなと考えながら、まとわりついてくる毛玉の塊ふたつを抱えて足音を忍ばせながらベッドに近づく。
 布団の山は静かに上下していた。耳が聡いのに目を覚ます様子もない。すっかり寝入っているようだ。
「ほい、どうぞ」
 まず抱えた毛の塊をベッドの上に離してやって、彼らが落ち着くのを待ってからそっと布団を捲った。すると予想通り、両手を前に投げ出すようにして眠っている顔のいい男が現れる。昼間にみると八割方皺が刻まれている眉間も寝床の中だとすっかりなりを潜めていて、実年齢よりもいくらか幼い顔つきに見えた。
「ちょっと失礼」
 念のため一言断ってからめくり上げた布団をそのまま被るようにしてベッドの中に潜り込む。だらんとした両腕の間に割り込んで抱きしめられているようにする。しっかりと筋肉のついた傷だらけの腕の程よい重みが心地よい。しばらくそのままにしていたら、眠っているのにもかかわらず腕の間に異物があると気付いたのか、ぎゅ、と力が込められたのがわかった。
 ふー、と押し出されるように吐息が漏れる。相手の落ち着く匂いとゆっくり重たい鼓動に包まれるこの瞬間は、信じられないほど穏やかだ。他人の体温は大歓迎だが、ここまで安らかな気持ちになれるものはそうそうない。もしかしたら唯一かもしれない。
 分厚い胸板に頬を押しつけてみたり、擦り寄ってみたり、かなり好き勝手をしても眠っている月は起きる気配がない。最初の頃、野営をしていたときはこちらが咳一つしただけでぱっちりと目を覚ましていたと思ったのだが、家の中だと違うのだろうか。
 ぴったりと寄り添っているうちにだんだんと眠気が染み出してきた。この状態で寝てしまうのはなんだかもったいない気もしたが、目の前の人間は起きそうもないし、前述のとおり身体はすっかり疲れ切っている。弄くり回すのは明日にするとして、今日は大人しくこの眠気に委ねてしまった方がよさそうだ。
「おやすみ」
 小さく囁くと、人とさほど変わらない長さの耳がぴくりと動いた。むにゃ、と口元が動いた気がしたがこれは返事なのだろうか。
 ほんの少しだけ強くなった腕の力に全てを預けてとろとろと目を閉じる。
 波間に揺られる巣の上でまどろむ夢を見たのは、それからすぐのことだった。

三度の飯が好き

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