キンちゃんが諸事情により偽装で殉職した話
自機+よそのこ(シルヴァくん)
ぼーっとするのにも飽きたので家主にちょっかいをかけようとしたら、地下の机でなにやら作業をしていた。
「……? にーさんなにやってんの? もう夜遅いけど」
「おっさんこそまだ起きてんのか? 寝たと思ってたんだけど」
「なんか寝る気にならなくてさ」
にゃんこ撫でてぼーっとしてたと正直に言うと、手元の紙に落とされていた視線がこちらを向く。目の下のクマがいつもよりも濃い。ここ最近、忙しく動き回っていた様子だったからそれも無理はないだろう。
「じゃあちょっと待ってて」
「うん?」
「気分転換しよう」
家主はよっこいしょとおじさん臭い声を出して立ち上がると、キッチンに向かった。鍋やら何やらを取り出す音を聞きながら、言われたとおり大人しく大きな猫のソファーに座って待っていること十分ほど、戻ってきた足音は二人分のマグカップを携えていた。
「ほら」
「ありがとー。何?」
「ホットミルク。たぶん寝られないだろうからこれ飲んどけ」
「えっ寝られないの俺」
「寝られないと思うよ、その様子見ると」
そうかな、と呟いてほこほこと湯気を立てるマグカップにふうふうと息を吹きかけながら口をつける。何か混ぜ込まれているのか、舌に広がるミルクは甘い。
「飲んじゃったらゆすいでキッチンに置いといて。蜂蜜入ってるから歯磨いとけよ」
「子供扱いしないでよ。にーさんは?」
「俺はまだやることあるから起きてる」
「やること?」
コーヒーの香りを引き連れたスリッパの音がぺたぺたと遠ざかり、再び仕事用に使っている机に向かう。
「手伝えそうなこともらってきた」
「……こんな時まで仕事?」
自分でも驚くほど硬い声が出た。いつもグランドカンパニーの仕事をしているはずなのに、今回ばかりはもやもやと理由のわからない憤りが心の内に広がって、甘かったはずのミルクが少しばかり苦くなる。だが、家主は特に気にしていない様子で視線を上げると静かに否定した。
「いや、葬儀の方」
「あ、そっか、うん……」
「うん。友達だし」
「そうね」
未だ暖かいマグカップを両手で包む。いつの間にか足下に来ていた猫が一声鳴いた。
——つい先日のことだ。彼らの友人が一人死んだ。
理由は任務上守秘義務があるとのことで明かされなかったが、その友人の上司が直接玄関先に来て、対応に出た家主に告げていた様子は、今でもはっきり思い出せる。話を聞いていた家主の顔からどんどん表情が抜けていくのも、後ろで聞いていたシルヴァに「ちょっと不滅隊いってくる」と平淡な声で伝えてきたことも。
人は皆死ぬものだ。それが友人であれ、家族であれ、恋人であれ、そして自分自身であれ。人の機微に疎いところはあれどもそれなりの年数生きてきたから、人の死に目には何度も遭っているし、そういうものだ、と通り過ぎてきた。
だから今回もそうなんだろう、きっと自分の人生にかつていた人間として通り過ぎるのだろうと思っていた。けれど、ここのところずっと、その友人のことが頭に浮かんで離れない。何かをしようと思っているのは間違いないが、何をすれば良いのかわからない。ただ気持ちだけが空回りしている。だからといって、なじみの家に転がり込むこともしたくない。こんな気分は初めてだった。
「起きたいならここに居ろよ」
それを見越しているのか、はたまた単なる気遣いか、家主は手元の紙に目を落としながらそう言った。
「おっさん明日は依頼ないんでしょ。ちょっとは夜更かししてもいいと思うよ」
「それはそうだけど、邪魔じゃない?」
「いんや」
「そっか」
「……」
「……なんか手伝うことある?」
翠の目が——仄暗い地下のせいで黒にも見える深い色の瞳がこちらを向き、そしてほんの少しだけ柔らかくなった。
「じゃあこれ頼める? 名簿と、返事の突き合わせ」
「あ、うん」
マグカップを一旦机において食堂の椅子を持ってくると、シルヴァは家主の近くに陣取った。空けてくれたスペースにぱすんと紙と手紙、そしてペンが載せられる。
「出席はこっちに印付けて。欠席はこっちね。内輪で使う用だから、わかればいい」
「了解」
「もし名簿にいない人からの手紙があったら新しく書き足して。できたらこっち頂戴」
言われたとおり、返信されてきた手紙の差出人の名前と名簿を付き合わせていく。結構な量があるが、それはかえって今のシルヴァにとっては一種の救いに近かった。知っている名前もあれば知らない名前もあるし、返信用として整えられた形式の外に一言書き加えてくれている人もいる。個性豊かな文字達は見ていて新鮮で結構楽しい。気分を紛らわすにはもってこいだった。
「あ、ユーさん来るんだね」
「うん。口頭でいいっていったんだけど、手紙すぐ返してくれた」
「律儀だねえ」
「な。ぽぽちゃんも来るし、知り合いはほとんど来てくれるってさ」
「そっか。……良かったね」
「そうね」
言葉が途切れた。
互いのペンの音と、暖炉ではぜる薪の音と、猫の毛繕いの音だけが、時たま耳に届く。
「式って明後日なんだ」
なんとなく落ち着かずに口を開いたら、傍らの青年は特に気を悪くした様子もなく「うん」と頷いた。
「俺こういうの出たことない」
「周りに合わせて同じ事すりゃいいよ」
「そうなの?」
「そう。解んなくなったら俺に聞け。近くに居るようにするから」
「わかった」
「服持ってる? 黒いやつなら派手じゃなかったらなんでもいい。隊の礼服とか」
服、といわれて条件に当てはまりそうなものを思い浮かべる。
「……あ、あのスーツ。この前着てたやつ。あれでいいかな」
「ああ、うん、あれね。いいよ、そういう服だから」
再び会話が止まった。
いつの間にか手元の手紙はなくなっていた。終わった、と家主に渡すと、同じく自分の仕事も終えたらしい家主は「ありがとね」と受け取る。こういう仕事は慣れないからうまくできたか心配だったが、家主の口から出たのは「よし」という短い言葉だった。少しホッとする。
「助かった。ちょっと目が疲れてたから」
「どういたしまして」
手際よく机の上が片付けられ、マグカップの残りも一息で空になる。
「俺は寝るけどおっさんどうする?」
「うーん……寝る。寝てみる」
「わかった」
「っていうかにーさん、コーヒー飲んだのに寝られるの」
「残念ながら効かないんだなー」
「じゃあなんで飲んだのさ」
「気分転換だって言っただろ」
マグカップをシンクに置いた帰り道にソファーで丸くなっていた猫を抱え(不服そうな声を出されたが噛まれはしなかった)、寝室のある上へ戻る。互いに寝る準備をして、いつものもこもこパジャマを抱え——ようとしたのだが、腕を回す前に何故かこちらの頭が抱えられてしまった。
「ふぁ? ちょっと」
「まあまあ、今日はこうされておきなさい」
両手がわしわしと頭の後ろを撫でてくる。なんとなくくすぐったいが、悪い気はしなかったのでそのまま好きにさせた。
「……にーさん慣れてるよね」
「うん?」
「こういうの」
まだ寝入る頃合いではないと思ってもごもごと話しかけてみたら、案の定返事があった。
「行ったことあるの?」
「商人だったときにな。家族も見送ったし」
「……そっか、ごめん」
「おっさんが謝ることじゃない」
またわしわしと撫でられる。なんでそこばっか撫でるの、と聞いたら刈り上げの感触がなんとなく良くて、という返事があった。この分だとまだまだ起きていそうだ。
(——そもそも)
そもそも寝ろという方が無理なのだ。行き場もない、置き場もない、こんなもやもやした重たい塊を心の内に抱えたまま目をつぶる方が難しい。かつて世話になった夫人が死んだときも似たような心持ちになったが、今回はもっと重くて、そして——
「にーさんさ、悲しくないの、こういうとき」
ざりざりと撫でる手が止まった。
「悲しいよ」
返ってくる声は至って普通だ。震えてもいないし、掠れてもいない。
「でも泣いてないよね」
「誰か一人は動ける奴がいた方がいいからな」
「それってしんどくない?」
「…………」
少し長めの沈黙があった。何かまずいことを言ったのだろうか。もごもごと顔を上げてみたら、薄暗い視界に入ってきたのは、ただぽかんとした表情だった。
「え、なにその顔」
「……いや、おっさんも成長したなあって思って」
「成長」
「うん、成長」
一体どういう意味なのかが解らず眉を寄せたら、再びざりざりが始まった。とにかく寝られるように頑張りなさいと言われているような気がして、逆らわずに再びふわふわの塊に顔を埋める。
「甘やかされてる気がする」
「そんなつもりはないけどな」
「なんか悔しい」
「えー……じゃあそうだ、色々落ち着いて、俺が泣けるタイミングになったら同じ事して。ふわふわは着なくていいから」
「うん」
「今はおっさんの番」
「うん……」
ミッドランダーにしては大柄の、しかし自分と比べると随分小柄な身体に手を回す。
じわ、と目許に広がった熱は、綿毛のような生地に吸い込まれていった。