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晩ご飯と朝ご飯と晩ご飯(隠喩)の話
後日窓から飛び降り事件に繋がるのであった

 人の体温は心地が良い。他人の鼓動も聞いていて落ち着く。抱きつくのにももってこいだ。もちろんやることだって気持ちが良い。
 だから毎朝、男の腕の中で目を覚ます。周りや家族からは一人の相手に落ち着いたらと言われていたが、こんな気持ちいいことを一人としかしないなんて勿体なくて仕方がない。しんどい仕事の後なんて特にキく。委ねて溺れて貪り尽くして、すっきり迎える次の朝はなんとも言えない爽やかさがある。
「んん」
 思いっ切り背伸びをして、脱ぎ散らかした自分の服を拾い集めながらバスルームに向かう。今日は昼過ぎの出勤と伝えてあるし朝と昼はゆっくり家で過ごそう、新調した台所をとことん使い倒してやろうと思案しながら、やや癖のある蛇口を捻った。頭からお湯を被り、目をつぶったまま石鹸を取って体中綺麗にしてもそもそと服を着たら、未だに寝床でいびきをかいている相手を起こす。
「おはよう」
「……んぉ? ぉおはよ……」
「俺帰るから。戸締まりちゃんとしてね」
「おー……」
「じゃまた今度」
 それなりに年季が入っていい味を出した木の扉を押し開けて、少しばかり削れて丸くなっている石の階段を下りていく。階段を下りきり、朝日を照り返して白く輝く石畳を踏んだ瞬間、海辺特有の強い風が吹き抜け紺色の上着の裾を膨らませる。
 この潮の匂いを嗅ぐとどうしても魚が食べたくなっていけない。せっかくキッチンを広く作り直したのだから、大ぶりな魚を買ってがっつり捌いてやろうかと市場に足を向けた。
「こっちの魚はさっき釣ってきたばっかりだ、旬真っ盛りで脂のってるよ」
「遠洋の珍しい魚を揃えてきたよ〜今晩のごちそうにどうだい」
「早いもん勝ち、早いもん勝ち! 北洋の獲れたて新鮮な魚だ! 今ならお買い得だよ!」
 海の都だからこそ、リムサ・ロミンサの市場は朝が早い。ウルダハならほとんど開いていないような時間でも、威勢の良い呼び声があたりを飛び交っている。しかも住人達も揃って早起きなもんだから人通りもかなりのものだ。この元気な街の様子はなかなか嫌いではない。
「ようにいちゃん」
 人にぶつからないようにしつつ魚を物色していたら、突然脇の魚屋から声をかけられた。ん、と後ろを振り返ると、そこには顔見知りのごつい顔がある。
「なに、なんかいい魚あるの? 俺今日はがっつり捌きたい気分なんだけど」
「お? じゃあこれどうだ、マズラヤマーリン……の亜種とか言われてるやつ」
「でっか」
 携帯型の保冷箱からずろんと出してきたのはその男の身長の半分はあろうかという巨大な魚だった。とにかくでかいのだがつやつやと鱗が光っていて目も澄んでいる。鮮度は申し分なさそうだ。
「図体はでかいが味は締まってる。焼いても煮てもいいがこの鮮度ならまず生だな。店かどっかに卸そうと思ってたんだが、お前にだったら売ってやるよ。このぐらいなら食えるだろ」
「いけるいける。で、いくら?」
 尻ポケットに手を突っ込んで私用のマネークリップを取り出す。だが紙幣を数える前に、ぬ、と頭上に影が差した。
「そこで相談があるんだがな」
「えっなんだよ」
「今日の夜空いてるか」
 む、と眉根が寄ってしまった。朝だとどうしても顔に感情が出やすくて困る——のだが、今は特段抑える必要はないだろう。真上から見下ろす厳つい顔を見上げ、睨む。
「……あんた奥さんいるって聞いたけど? っていうかその話であってる?」
 途端、厳つい顔面が少しだけ渋いものになった。
 否定が来ないことからして、おそらくこちらの推測は当たっているのだろう。
 いつも夜の誘いなら大歓迎ではあるがこの男は別だった。散々楽しんだ後に嫁が居ることがわかったのだ。仲が冷え切っているからいつも外泊している、出て行くのも時間の問題だとかいろいろ言い訳をしていたが、配偶者がいる人間とはまず間違いなく面倒なことになるからずっと断り続けていた。向こうも誘ってこなくなったため諦めたと思っていたのだが。
「嫁のことはもう落ち着いたんだ」
 男は太い指でぼりぼりと頭を掻いた。
「落ち着いたってなに?」
「出てったんだよちょっと前に」
「だから面倒ごとはないって?」
 大きな溜め息を一つ、岩石で構成されたような顔面にぶつけた。だが岩石はびくともしない。むしろ「いいじゃねえか」と詰めてくる。
「暇でしょうがねえんだよ」
「一人でしてればいいだろ。お店の女の子呼ぶとか」
「お前がいい」
 だから頼むよ、と男は言った。随分頑なだ。何を言っても引き下がらない気配すらする。
 これは断り続けたら逆に面倒になるかもしれない。
「…………今日は午後勤だから夜遅いよ」
 しぶしぶ絞り出した言葉に、厳つい男の顔面が一気に明るくなった。
「いい、こいつ捌いて待ってる」
「俺の話聞いてた? 俺が捌きたいの。買って帰るから寄越せ。値引きもしないで」
「なんでだよ」
 ぶすっとした顔に、相場よりやや高いぐらいの紙幣をクリップから抜いて叩き付ける。
「魚一匹で買えると思われたくない。俺は売りもんでもないし」
「わかったよ……でもありがとうな」
「面倒なことになったらすぐやめる」
「それでいい、それで」
 手早く持ち運びしやすいようにまとめられた魚を抱え、喜色満面の男を尻目にさっさとその場を後にする。目的は達成したし、今晩のあてもできたはいいが、なんとも腑に落ちない。
「はぁー」
 分厚い紙を通してもなおひんやりと伝わってくる感触をきゅっと抱きしめると、エーテライトへと足を向けた。

三度の飯が好き

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