金糸雀の歌

WRO 特別収容プロトコル (4) / リブクラ / pixiv

 その施設で、彼は今も生きている。

***

 通りかかった『扉』の向こうから歌が聞こえてきて、ああもうそんな時間かと彼は腕時計をみた。
 そろそろ上がりの準備をしないといけない。腕に抱えていた書類をよっこいせと抱え直し、彼は歌を背中に一路オフィスへ向かう。相変わらず優しく穏やかで、そして儚げな青年の声に後ろ髪を引かれる思いになりながらも、もうだいぶ老朽化が進んだ廊下をえっちらおっちらと歩いていく。
「お、お疲れ。もうそんな時間か」
「お疲れさまっす」
「今日はなんか、元気ないね?」
「ここんとこいつもだよ。何かあったのかな」
 すれ違う先輩や同僚が話題にするのは、時間も相まってか『扉』の奥から聞こえる歌のことばかりだ。

 ——この施設の主は、あの『扉』の奥で毎日決まった時間に歌を歌う。

 どんな歌なのかを知っている人間も、なぜ歌っているのかを覚えている人間もいない。それどころか、あの『扉』の奥には何がいるのか、誰なのか、そしてどんな姿をしているのか、知っているのは直接世話をしている一握りの上級職員だけ。
 そしてその職員達は、口を揃えてこう言うのだ——彼は百年以上生きている、と。
 配属された当初、単なるデマや噂だと思っていた。だが、それらしき資料が余りにも多すぎて、そういう生き物もいていいよね、といった認識に至るのに半年もかからなかった。そしてもう半年が過ぎる頃には、この施設の主は「そういうもの」だと思えるようになっていた。
 人間の青年のような声で、人間のように歌う、『扉』の向こうの何か。
 施設を保全し、警備し、そして保管する彼ら職員は、そんな主のことを童話に出てくる妖精のように思っていた。人には姿を見せないが、常にそこにいて、いつも歌を聴かせてくれる、穏やかで優しい金糸雀の妖精だ。だから、聞こえてくるはずの歌が聞こえてこなかったり、悲しげだったりすると心配し、穏やかだと安堵し、そして明るいと喜ぶ程度には、皆愛着を持っていた。
「どうしたんですかね、今日は」
「わかんないね。最近ずっとだよね、調子悪そうなの」
 よっこいせと書類やタブレットを机の上に置きつつディスプレイと睨めっこをしている上司に同意を求めたら、どうやら彼女も同じことを考えていたらしい。あっさりと賛同が得られた。
「今日の担当の人が向こうにいるはずだから、戻ってきたら後で聞いてみるよ。みんな気にしてるしね」
「ありがとうございます」
「ほんじゃさっさと帰りなさい」
「はーい」
 お先に失礼しますと会釈して、悲しげな歌が響く中、彼は職場を後にした。

***

「リーブに会いたい」
 子守唄を終えた彼は絞り出すようにそう言った。
 今日は薬の投与をやめて半年目だ。それはつまり、彼がリーブに会えなくなって、半年が経つということになる。猫のぬいぐるみに布団をかけ、まるで寝かしつけているかのように撫でていた彼は、今にも泣き出しそうに見えた。
「きっとまた来てくれるよ」
 色褪せ、ほとんど真っ白くなった写真が壁を埋め尽くす部屋の中で、悲しげな瞳をした彼は、ここで初めてこちらを向いた。今はほとんど見かけなくなって久しい星の色をした両目が、僅かな光を鈍く反射する。
「忙しいのかな」
「多分そうだろうね。最近また物騒だって言っていたから」
「怪我してないかな」
「大丈夫だよ。皆ついてる」
「……そう」
「そう。ほら、今日の分やるから、手を出して」
 日にほとんど当たっていない、真っ白な手がゆらりと差し出される。僅かに震えている手を取ると、すっと針を沈め、注射器の中に満たされている透明な液体を注入した。
 彼の人形のように端正な顔が歪む。痛いのもあるとろうが、単純に注射が嫌いなのだ。百年以上も生きている決して死ねない生き物の癖に、子供のようなところがまだまだ残っているのが、彼の特徴だった。
「はい、終わったよ」
「……今日のは、何? 苦しくなるのか?」
「まだよく解ってないんだ。薬になるのか、毒になるのかも」
 使用済みの注射器を専用の容器に仕舞いながら、彼の問いに淡々と答える。内容を考えれば答えになっていないのだが、それでも質問に答えないよりは機嫌がいくらかましになるのだ。
「だから、君の体で、何がどう起こるのか観察する」
「観察?」
「そう、観察。……ああ、もう夜も遅いし、騒がないようにお口チャックしようか」
「うん」
 白い喉に触れると、僅かにその体が跳ねた。瞬間黒く細い紐の痕のようなものが、その首にじわりと現れる。声が出なくなったことを確認すると、次は万が一暴れないようにする処置をしていく。
 四肢を拘束されながらも彼は至って素直だった。毎日繰り返される実験を一定期間我慢すれば、「リーブ」に会えるとその薄弱な意志の中でも解っているからだ。
 すべての作業を終わらせたのち、彼の右手に呼び出し用のボタンを握らせた。
「苦しくなったり、変な感じがしたら、いつも通りこのボタンを押すんだよ」
 わかった、とうなずきが返されたのを確認して、彼の居室を後にする。カードキーで施錠したらあとは夜番に引き継ぐだけだ。
「あっ、おつかれさま」
 いくつもの修繕の跡が残る廊下を歩き、オフィスに着くと、まだ残っていたらしいチーフに遭遇した。
「お疲れさまです」
「お疲れさま。今終わったところ?」
「ええ。夜番は?」
「まだロッカーだよ」
 と、いうことは引継ができるのはもう少し先らしい。大人しく待つかと自分のデスクにつくと、席を離れていた間に来ていたメールをチェックする。
「彼、最近なんか元気なさそうだけど、何かあった?」
 すると、唐突にチーフが話しかけてきた。彼女は前置きなしでずばりと言う癖があるから、たまに思考が追いつかないことがある。案の定、メールに意識を取られていたため、一瞬何を言われたのかわからず聞き返してしまった。
「すみません、なんですか?」
「金糸雀の彼。最近元気なさそうだけど、何かあったのって」
 ああ、とようやく理解した彼は苦笑を滲ませた。
「ちょっと体調崩してるんです。季節の変わり目にどうも弱いみたいで」
「そっか」
「熱は出てないし、風邪でもなさそうなんですが、念のため薬飲ませてきました。今はぐっすり寝てるんじゃないかな」
 すらすらと口をついて出てくるのは、こういうときのために用意しておいたスクリプトだ。そしてチーフはあっさりと信用した。
「そっか。じゃ、後はよろしく」
「はい。お疲れさまでした」
 チーフを見送り、メールチェックを終えたところで、ようやく夜番がやってきた。お疲れさまと声をかけて、カードキーと端末を渡す。
「食事はすませてあるから。あとは日報に」
「了解。おつかれー」
「お疲れ」
 それだけ言うと引継は終わりだ。それじゃ後は頼むと言いおいて、彼は自分の荷物を持った。途端に端末の呼び出し音が鳴るのを尻目に、さっさと職場を後にする。
 ——上級職員以外のいつ誰が聞いているともわからないから、彼らの引継はいつも簡潔だ。聞かれてはならない理由は至極単純、彼らがやっている実験は表の収容規則では禁止されているからである。
 上層部も認めていることではあるものの、死ぬことができない金糸雀の彼に対して五十年以上にわたり実験を行い、人類の進化のために利用しているというのは明らかに、倫理から外れている。それに、この施設で働く少なくない数の職員は皆、毎日決まった時間に歌う施設の主を金糸雀と呼び、マスコットか何かのようにとらえ、愛している。この試みが明らかになれば、上層部はまだしも上級職員は無事ではすまないだろう。
 彼は施設をでると、併設された駐車場へ向かった。自分の車に乗り込むとエンジンをかけ、滑らかに駐車場から発進する。
 バックミラーに映る大きな施設を視界の端に捉えながら、彼は家族の待つ家へと車を走らせた。

三度の飯が好き

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