商人と番犬

剣闘士パロ エクソダスが増えるねえ! 
店手放してリムサに来た頃

 商人達の朝は早い。
 店を開けるのが昼前であっても、諸々の仕込みや準備がある。それに人前に出るからにはきちんと支度をしていなければならない。八百屋や肉屋といった食材を扱う店ほどではないものの、自分だってそれなりに朝は忙しいのだ。
 忙しい——のだが、妙に身体が重くて起きる気がしない。暖かくて良い匂いもする。布団は新調していないはずだ、それでも妙に居心地が良い重さがかかっている。ずっとこのままうとうとしていたい。
 だがだらだら寝ているわけにはいかない。店を開けなければ。
 鉛のように重たい瞼をなんとかして引っ張り上げる。目についたのは、年季の入った伝統的な石壁と、年々使い込まれて深い色になってきた床と、錬金術師ギルドからもらってきた魔導書のサンプルが並べられた本棚に、家族の思い出が飾られた写真立てのある寝室——ではなく、二人がけ用のダイニングセットと真新しい食器が置いてある、こぢんまりした見慣れない部屋だった。
「……ぁ」
 ああそうだ、思い出した。これが今の家だ。店なんてもうない、あるのはこの身体と、少し暮らしていくのに足りるくらいのお金と、ここから見える一部屋だけのアパルトメントの一室。
(ぜんぶないんだっけ)
 目盛が上に伸びるたびに祖父が喜んでお小遣いをくれた柱も、独り立ちのためにと父が用意してくれていた革張りの顧客名簿も、小さい頃に出かけた旅行先で母と一緒に作った不格好な陶器の皿も。
 は、とほとんど吐息のような声が漏れる。先程見ていた夢のせいもあって、今まで考えてもみなかった喪失感に心が落ちていく。
 だが、先程からずっとあった重みが急に明確な意思を持って動き出した。覚束ない視線を遣ると、そこには薄い布団の上からこちらの腹にゆるく回されている、古傷だらけの太い腕が見える。
「ん」
 頭の上からそんな声がしたかと思うと、腕はぐいと身体を引っ張ってきた。されるがまま引き寄せられた先、ぴたりとくっつく温もりに穴の底に落ちかけていた気持ちが浮く。まるでこの腕に引き上げられたかのようだ。
「おきた?」
 また声が降ってきた。
「やみあがり……早起き、だめだって、せんせいがいってた……」
 眠そうだ。それなのに一丁前に、こちらのことを気遣ってくる。
「おれがつくるから……寝てて……」
「……そう言ってこの前焦がしたでしょ、寝ぼけて」
 腕はそのままに寝返りを打つ。寝言に近い声の主、真っ黒い大型犬にも似た黒影の青年は、新月の次の日よりもずっとずっと細い三日月をさらに瞬かせながらこちらを見ていた。
「起きたら一緒に作ろうね」
「……はやおきしねえ? ちゃんとねる?」
「寝るよ」
「ねつださない……?」
「それはわかんないけどさ、とにかく寝るよ」
 少し不満げな鼻息が前髪をくすぐる。ただ、ほっぺとおでこを撫でてあげたら満足してしまったらしい。鼻を鳴らしてまたぎゅうと身体を寄せてきた。
 自分よりもゆっくりで、そして大きくて低い心臓の音が伝わってくる。誘われるように呼吸が大きくなり、胸いっぱいにほのかな白檀の香りが満ちた。先程までの危うい気分はすっかりなりを潜めて、今はただ穏やかな気持ちがある。
 そうだ、全てなくなってもいいから手に入れたかったのだ。この大きくて、強くて、そして優しい夜の狼を。それに最低限の物は持ってきてあるし、持ってきていない物であっても、手元から離れたからといって何もかもなかったことになるわけではない。
(情けない。対価に執着するなんて)
 このままでは、覚悟を決めて払った金を惜しむとはそれでもウルダハの商人か、今まで教えてきたことを忘れたのかと祖父にも父にも叱られてしまうだろう。
「ごめんねキンちゃん」
「……んん、すき」
「会話んなってないよ」
 まるで少年のような寝顔を晒す彼の頬を撫で、優しいぬくもりを感じながら、もう一度目瞼を下ろす。
 深い呼吸が二つになったのは、それからすぐのことだった。

三度の飯が好き

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