幼児退行を諦めない
こーはくさんいつもありがとうございます
義理の兄からの連絡だったからついつい取ってしまった。取った瞬間「やっちまった」と思ったが、話を聞いて「しまった」と血の気が引いた。珍しく詰めていた執務室から飛び出し、そのまま薬学院へ向かう。ここしばらく遠ざかっていた廊下を早足で抜け、奥の部屋に辿り着くと、半ば飛びつくようにして扉を開ける。
「来たか」
「いつ」
「つい今しがた、寝かしつけにきた職員が気づいた。夕食にはいたそうだから、それまでのどこかで」
「クソ」
深刻な顔をした上司に吐き捨てる言葉ではないが事態が事態だからか特に何も言われなかった。入った途端に「キンちゃん!」と迎えてくれる声がないだけでひどく殺風景に感じる部屋から逃げるように背を向け、今度はウルダハの街へ駆けていく。
ヒラキがいなくなる心当たりなんて今のキーンにはなかった。見にいっていた頃は家族に会いたがってはいたものの、言いつけは良く守っていたし、わがままを言うこともなかった。検査はいやだ、本読んで、そのぐらいだ。あとは——
『あとは、キンちゃんどこ、って聞いてたぐらいかな。最近は』
「…………」
薬学院周辺、通行人や店の人間に話を聞きながら、先に探しに出ていたカームにそう言われて思わず舌が鈍る。
『また一人で勝手に決めたでしょう』
溜息交じりのカームの声は全て見透かしているようだった。
『何か考えがあるならと思って黙ってはいたけれども、見つけたらちゃんとお話しするんだよ。僕もキーンに話があるからね』
「……」
『返事』
「……わかったよ」
噛みしめた歯の間から押し出すように返事をすると通話を切る。これもあいつのためだと薬学院に行く時間を減らして、ここ一週間はついに全く顔を見せに行かなかった。それがヒラキの為だと思ったからだ。
だが、実際は違った。さすがに薬学院の服を着ていたせいかごくごく普通のミッドランダーであっても目立ったらしい。夜にいっそう人通りが増える通りでも、姿を見たと言ってくれる人間はすぐに見つかった。
「ああ、そういえば来たねえ。人を探しているようだったよ」
「その人なら話しかけられましたよ。なんでも、『キンちゃん』という人を知らないかと」
「ぬいぐるみだけ抱えてね、大事そうに。どこかに泊まるお金がないなら大変だろうに、ここの通りをずっと歩いていって」
「『夜みたいな髪と肌で、金色のお目々の、このおおかみさんみたいな人しりませんか』って言ってました。——あんたも聞いてたよね? ……うん、間違いないです」
「夜のウルダハは冷えるから薬学院に戻った方が良いんじゃないかって言ったんだけど、キンちゃんがいなかったらどこでもおんなじだからってね。――あんたがキンちゃんだろ? 可哀想に、早く見つかるといいな」
邪魔になるなら忘れて欲しいと思っていた。自分のような重たい足枷なんて置いて、また自由にふらふらと飛び回ってほしかった。だがもう遅かったのだ。鳥は巣を知った。
人々の言葉をたどりながら、日が暮れた砂の都を進んでいく。繁華街はとっくに過ぎて、こぢんまりした店や民家が連なる通りへさしかかったところで、ふと足が止まる。
(ここ)
柱に刻まれた地名に見覚えがある。焦りながらも記憶を手繰ってはたと気付いた。以前、昔の男絡みでヒラキの過去を調べていたときに見かけた地名だ。つまり、かつて彼が持っていた店と家が近くにある。
もしかしたら、と足を進める。今のヒラキは冒険者の記憶も商人の記憶もない。あるのは幼い子供の頃の記憶と心だ。キーンを探しに来て、いつのまにか見覚えのある所にきて、それが家の近くだと解れば戻っていてもおかしくない。聞き分けが良くても彼は子供なのだから。
いつの間にか駆け足になっていたキーンが止まったのは、灯りのついていないある一軒家だった。看板は撤去されてしまっているが見間違えようがない。看板以外はかつて心の中で見た建物とまるきり同じだったからだ。そして、埃や砂の積もった玄関先に真新しい足跡が一つあるのにも気付いた。ここだ。ここにいる。
「……」
扉に手をかける。ざり、と手に錆が触れたが、鍵がかかっている様子はなかった。深呼吸を一つして、そのままぐいと押し開ける。
扉の向こうは淀んだ泥——でもなんでもなく、ただ雑然とした店だった。紙の見本でも陳列していたのか引き出し付きの棚がそこら中の壁に並び、東方由来の珠を使った計算機が置かれているカウンターや、きっと貴重な紙が納められていたであろう硝子のケースもある。ただ、床に散らばり踏まれた紙や本、接客用のソファーやテーブルに積もった埃もそのままで、まるで人がいなくなったまま時が止まったようだった。「片付けようとは思うんだけどねー」と言っていたあの曖昧な笑いを思い出す。
足跡は奥の扉につながっているようだった。静かに追いかけて扉を開けると、地下と二階にそれぞれ続く階段がある。きっと一階が店舗で、この階段を登った先が家族の居住スペースだったのだろう。一歩進むごとに舞い上がる埃を視界の端に捕らえながら、ゆっくり階段を上っていく。
二階の廊下に散りばめられた足跡からは、彼の動揺が如実に伝わってきた。きっといるはずの家族を探して家中を探したのだろう。そのときの心境を思うと、胸が締め付けられそうになる。
足跡は奥の部屋に入ったところで出てこなくなっていた。キーンはまた息を吐くと、わずかに開いていた扉をそのまま押し開ける。
「——ヒラキ?」
返事はない。だが人の気配は耳が捉えている。
ざっと見渡した部屋は書斎のようだった。革張りの本や大判の本、はたまた手の平よりも小さな本が、壁の本棚に所狭しと並んでいる。そして一番奥、こちらに背中を向けている大きな革張りの椅子から、見慣れたつむじが覗いている。
逸る心を抑えながら椅子に近づく。くるりとこちらに向けてみれば、まるでぬいぐるみを守るようにして丸まっている身体がそこにあった。
「おい、大丈夫か」
「……」
「おい!」
肩を掴んで揺さぶってようやく、のろのろと顔が動いた。だが、涙の痕にくっついてしまった埃をぬぐってやっても泣き声の一つもない。ただぼんやりと、半分だけ開いた目でこちらを見ている。
「痛いとこねえか、怪我は? 転んだりしてねえか?」
見たところ、特に怪我はないようだ。だが、手に伝わる体温がだいぶ高い。これは風邪でも引いてしまったかもしれないと急いで抱え上げたところ、ようやくぽそりと緑頭から声が漏れた。
「——きんちゃん」
「なんだ」
「きんちゃんも、おれを、おいてくの……」
は、と息を呑んだ瞬間、かろうじて開いていた緑の目がとろんと閉じて、頭がかくんと重みに負けた。
「おい! クソッ」
何度目かの悪態を吐きつつ抱え直し、無人の部屋から急いで出る。考えるのは後回しだ。力の抜けた身体を抱き締めながら、キーンは夜気の満ちる砂の都を走っていった。