南方ボズヤ戦線にて
モブがいろいろする ちょっと痛い
手に伝わる感触は今までで一番生々しかった。
一瞬髪の毛が擦れる触感に硬いものを砕いた感覚、そして中途半端に柔らかい手応えが、短い悲鳴とともに手から脳へと伝わってくる瞬間、これまでにない怖気を感じた。今まで冒険者として何体も魔物を討伐して、これよりももっとひどい状態にせざるをえなかったこともあるというのに、ただ石でヒトを殴っただけでこうなるとは、期待の冒険者が聞いて呆れると自嘲する。
「はっ、……はーっ、はっ、」
詰めていた息が漏れ、手が震え出す。血と髪の毛と肉片がこびりついた石をなんとか離そうとしてみたが、手が強ばって動かない。
(一人だけでもこんなことになるのに)
そう考えたら、目の前に倒れている身体がますます異常に見えてきた。
たった今手にかけた身体は、グランドカンパニーの依頼で向かった戦地で会った、黒渦団の大甲士だった。普段は召喚士であるにもかかわらず斧や杖を持っていた彼は、轟音や悲鳴に塗れて誰もが正気を失う泥濘み淀んだ大地にあって、常に人間としてそこにいた。何人もの帝国兵を手にかけてもなおだ。黒渦の狐は人を食う、だから平気でいられるのだなどという陰口も幾度となく聞いた。
確かに追い詰められる人間が多い中、ただ日常として食べ、飲み、笑う彼はある種異質ではあったが、助けられることもあったのは事実だ。実際何度も与太話で緊張を解してくれたことは忘れていない。
――だからこそ許せなかった。こちらに希望を持たせておいて、いざ自分が危うくなるとまるでトカゲの尻尾のように簡単に切り離すのだ。
ボズヤの地に夜な夜な現れ出る亡霊は、排除に成功すると貴重な資源を落とす代わりにやたらと強力で、部隊を充てても犠牲者が出るほどの代物と聞いていた。だがそれは派遣されたレジスタンスたちの話であって、幾多のダンジョンで腕を磨いた冒険者であればそうではないはずだ。冒険者としての箔もつけられて物資ももらえるとなれば一石二鳥である。大甲士だって冒険者なのだから、きっと喜んでくれるに違いない。
数日前の自分はただただそう信じていた。
時間になったら部隊をさり気なく離れて、必死に亡霊の注意を引き、冷気とも思える怨念を背中に受けながら向かった作戦地域で、乱戦のさなかにある黒渦団の制服がこちらを見たのがわかった。
「――伝達。想定外の敵だ」
「大甲士殿、」
よかった気付いてくれた。これでうまくいったはず、そう思った自分の耳に届いたのは、至極冷静な声だった。
「種別アンデッド、ライダー。皆見たな? ターゲットに照準を絞れ。一発でも当てると向かってくるぞ」
「大甲士殿……!? その、そんな、自分は」
「万が一手を出したら座標を伝えろ、蘇生班が向かう。以上」
フルフェイスのバイザーに――以前「これつけろって先生に言われたんだけどさ、ごっつくてかっこいいよね」などと笑いながら磨いていたバイザーに覆われた翠の瞳が、ちらりとこちらを一瞥する。だがそのまま留まることはなく、すぐにふっと離れていった。それならばと掴みかかるように伸ばした手も避けられて、その勢いのままにすれ違う。自分に追いすがる亡者の騎士もまた、大甲士に脇目も振らずに通り抜ける。
亡霊は一度取り憑いたら最後、排除されるか触れるもの全てを呪い尽くすまで止まらない。言い換えれば、最後に見つかった者が力尽きると、また元の場所へと戻っていく。
見捨てられた――そう理解した瞬間、氷のような怨念が背中を刺し貫いた。その時の感触と絶望は今でも覚えている。
ぎ、と手の中の石をまた握り締める。目を覚ましたその日、直属の上官から告げられた処分と戦果の喪失、そして「黒渦団の部隊を見かけたら礼を言っておけ、拾ってきてくれたのだからな」という言葉が思い起こされ、沸々と苛立ちが腹の底から湧き上がってくる。こっちはせっかく、前線に立ち続ける彼のためになればと思ってやったのに、自分の身が危険にさらされた途端に見捨てる。そのうえ切った尻尾は自分の腹の肥やしときた。
「クソッ、クソックソッ!!」
倒れた身体は動かない。やってしまったという恐怖を怒りが塗りつぶしていく。これだけじゃ足りない、やってしまったのならば家族にすら会わせられないほどぐちゃぐちゃにしてやればいい。自分の行いで自分だけではなく、周りの人間も苦しめばいい。
衝き上がる衝動のままに足を動かす。
しかしその瞬間、文字通り足元の地面が弾けた。
「ひっ」
聞き覚えのある音に思わずしゃがみ込む。狙撃だ。だがこのあたりは先程大甲士の部隊が鎮圧に成功したはずで、伏兵なんかいるはずもない。だが、息つく暇もなく今度は頬を熱い何かが掠っていった。
「動くなよ」
後ろからかけられたのは聞き覚えのある低い声だった。振り向こうとするが、再び銃弾が足元を抉る。
「両手を挙げて、膝を着け。ゆっくりだ」
声に言われるがまま、おそるおそる手を上げて膝を着いた。ぬかるんだ地面に沈んだ足から、じわじわと冷たさが伝わってくる。
「そのままだ」
微塵も気配を感じなかったところから生まれた足音がずんずんと近づいてきた。背後についた瞬間、容赦のない力で利き手をねじ上げられ、地面に押しつけられる。抵抗なんて思いつく暇もない恐ろしいほどの手際の良さで拘束してきた背後の男は、ずしりと背中にかけた圧を増す。
「とうしてこんなことした」
耳に飛び込んできた音は低く冷たい。身体の芯を掴まれるような声に震えながらも、「裏切られた」と絞り出す。
「裏切られたんだ、戦場じゃ助けてくれるって、おれのこと見捨てないってあんなに言ってたのに裏切られた、だからやってやったんだ! なにが大甲士だ、さんざんひとを食い物にしてきて、そんなやつここで死ぬのがお似合いなんだよざまあみろ!」
男は口も挟まず黙って聞いていたが、おもむろに「そうか」と言い、思いも寄らない言葉を続けた。
「……で、こんなこと言ってっけど、どうなんだ大甲士さんよ」
「は」
どうしてそこで大甲士に話が向くのだろうか。だってついさっき、ほぼ自分の全力で殴ったはずだ。斧を担いでいたとはいえ、基本的にソーサラーのミッドランダーが、ルガディンの全力に耐えられるわけがない。
だが、動揺する自分をよそに、ごそりと少し前の方で何かが動く気配がした。
「ッあー……キンちゃんちょっと、回復魔法ぐらいはかけてくれたっていいんじゃない」
「オレ今何持ってると思う」
「ポッケにケアルの一つや二つ入ってるでしょ?」
うそだ、という呟きは地面を踏みしめる音でかき消える。しかし、目の前の人間には届いたようで、「うそじゃないよ」とご丁寧に返事があった。
「それで、なんだっけ? 俺が助けてくれるって言ったって? それちゃんと話聞いてた?」
「は、はなし」
「命令を聞いてくれたら助けてあげるって言ったの。あんた明らかに命令違反でしょ、あんたの上官が言ってたよ。申し訳ないけど、そういうのは助けられないからね」
「でも、でも自分を見捨てて」
「そりゃそうだよ、誰が爆弾抱えて突っ込んでくる奴を助けるんだ。部隊の皆を無事に帰すのが俺の役目。正義の味方じゃないんでね」
恐る恐る顔を上げる。
そこには、顔の半分を血で濡らしながらも、まったくもっていつも通りの大甲士がいた。
ここにきて、初めて自分は目の前に立つミッドランダーの人間に明確な恐怖を覚えた。立っている場所が、精神性がそもそも自分とは違うのだ。黒渦の狐は人を食う、その意味がようやくわかった気がした。
「ああでも、そういうチャレンジ精神は大事だと思うよ、ほどほどに伸ばしていったらいいと思う。もっともうちに必要なのは兵隊だから、ここで発揮されても困るんだけどさ。――憲兵呼んだ?」
「とっくに。つかもう来てる」
「速いね。じゃあ、あとはそっちの隊にお任せします」
戒めていた重みが退く。同時に容赦なく脇を抱え上げられ、ずりずりと引きずられていく。すれ違うように大甲士に近づいていったエレゼン族の青年は、きっと先程まで自分を抑えつけていた男だろう。彼は何事かを大甲士と話すと、近くに転がっていたバイザーを拾い上げている大甲士の髪をそっと分け、傷を診ているようだった。
その細い指先が触れた途端に柔らかくなった表情は、どんどんと遠ざかっていく。
うつむいた視界には、汚泥と瓦礫しか映らなかった。
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