ターニングポイント (5) / リブクラ / pixiv
イリーナには姉がいる。
タークスだった姉は昔からとても優秀だった。両親はそうではなかったが、周りは姉とイリーナを比較するのが好きだった。あの子の妹なのに、あの子はこうだったけど、あの子はあそこに行ったのに、あの子にはできたのに。たぶん、周りはそこまで深い意味を考えていなかったのだろうし、本人が口にするのは一度や二度程度だ。たが、イリーナにとっては何度も何度も聞いてきた、半ば呪いじみた言葉でもあった。
姉と同じ仕事に就いたのは、イリーナにとって、それまでの自分と姉を追い越し、決別するためでもあった。姉のことは嫌いではなかったし、むしろ好きで、憧れていたが、今まで自分の中にわだかまっていた姉の形をした何かを、振り払いたいと思っていたのも事実だ。
同じ仕事だから、上司も先輩も姉のことを知っている。だが、彼らは比べることはしなかった。姉は姉、イリーナはイリーナだ。そういった、ごく当たり前の他人として扱ってくれた。
仕事はイリーナの新しい居場所になった。
そして、その仕事は、新しい家族を連れてきた。
***
クラウド・ストライフがサンプルとして運び込まれ、宝条によって行われた新たな自我と理性を植え付ける実験が終わった日、イリーナは警護として研究室にいた。
ビーカーの中には相変わらず、ぐったりと目を瞑るサンプル——クラウドが横たわっているだけだ。動きもしない、喋りもしない、そして目を開けてもいない、端から見たらただの人形のように見えるそれが意味のある動きを見せたのは、シフトが残り半分になった時だった。
毛布の塊が動く。覗いている金髪が揺れ、蝋のように白い腕や足がぎこちなく宙を掻き、地面に着く。やがてがくがくと覚束ない腕で上半身を持ち上げようとしていたが、すぐにごとんと地面に落ちる。そして再び、起きあがろうとして落ちる。その繰り返しだった。
イリーナがビーカーに近づいたのはほんの興味だった。どんな反応をするんだろうか。どんな顔をしているんだろうか。それまで人形だった彼が何を考えているのか気になったのだ。
幸いにして、クラウドはビーカーの外寄りにいた。だから、イリーナはいつものようにしゃがんで、もがいているクラウドを見下ろした。
何度目かの墜落の後、体力が尽きたのか、それとも諦めたのか、クラウドはうつ伏せのまま動かなくなった。そのとき、クラウドの顔がちょうどイリーナの方を向いた。
それまで全くかみ合わなかった視線がぱちりとかち合い、お互いの時間が止まる。
先に動いたのはクラウドだった。投げ出された手がひどくゆっくりと動き、イリーナの方に伸ばされる。こん、と透明な壁に当たって阻まれ落ちたが、手はそのままガラスに押しつけられていた。
触りたいのだろうか。そう思ったイリーナは、ただなんとなく、自分も手を伸ばした。そして、ガラス越しのクラウドの手に添える。
魔晄色の瞳がほんの少し見開かれ、それまで本当に動きのなかった表情が、にわかに感情を形作った。
それは笑顔だった。恐怖でもなく、怯えでもない、純粋な安堵の笑顔だった。
クラウドの乾いた唇がわななき、ほとんどガラスで遮られるほどには小さな声が、イリーナの鼓膜を震わせる。
「——ねえさんだ」
普段ならあんたを弟にしたつもりはないわよ、なんて言い返していただろうし、実際言おうとしていた。だが、イリーナは言わなかった。クラウドが本当に嬉しそうな顔をしていたからだ。
それに、新しい自我として宝条が植え付けたものがこれだとしたら、いたずらに否定して壊してしまうのは避けなければならない。そう判断したイリーナは、手をガラスにくっつけたまま、見上げるクラウドに答えた。
「そうよ、姉さんよ」
「ねえさん」
「ええ」
「ねえさん」
「何よ」
「ねえさん」
「そればっかりねあんた」
おぼえたての言葉を繰り返す子供のように、ひたすらにイリーナを姉と呼ぶクラウドに思わず笑ってしまう。こんこん、とガラスを叩いてやると、またぱぁっと笑った。反応してくれたことが余程嬉しいらしい。
普通、こういった時は怖がるのではないかと思ったが、クラウドはまったくそう言った素振りを見せなかった。むしろ無邪気に慕ってくるようにさえ見える。姉のことを刷り込まれでもしたか、それともうっすら覚えているのか——そこまで考えたところで、クラウドにはもう家族と呼べるものはいなかったことに気づいた。彼の唯一の家族であった母親はもう、ニブルヘイムの惨劇の時に死んでいるはずだ。
と、いうことは、これは宝条の仕業だろう。偽の記憶で、イリーナを姉に仕立て上げたのだ。
「ねえさん」
クラウドの唇が、天涯孤独の彼が同じ音を紡ぐ。
宝条が作り出した偽の記憶のはずなのに、イリーナにはクラウドが、本当に待ち望んだ何かを呼んでいるように聞こえた。
「ねえさん……」
とろとろとクラウドの瞼が落ちていく。本当に力尽きかけているのだろうが、イリーナから目線を外そうともしないし、ガラスにくっつけた手も離れていかない。
「……わかったわよ、いるわ、ここに」
彼女はそのまま腰を下ろす。
声が聞こえたのか、それとも察したのかは知らないが、クラウドはふっとまた笑うと、今度こそとろんと目を閉じた。眠ってしまったのだろう。
(ずいぶん大きい弟ね)
——だけど、不思議と悪い気はしない。
すうすうと穏やかに眠るクラウドを見下ろし、イリーナはまったくもう、と溜息を吐く。
その日から、ビーカーの中のクラウド・ストライフは、イリーナの弟になった。