帝国if 片付いた後片付けに来たよ
春の兆し
帝都の冬は寒い。見栄っ張りの貴族の鼻がもげた昔話があったが、帝国の民はそれが実話だと身をもって知っている。実際、外に出している箇所はすべからく刺すような痛みに襲われるから、どうしても外に出てしまう鼻は呼吸のしやすさを代償に覆うか擦るしかない。それは暦の上ではそろそろ春が始まろうとする時期でも変わらない。
「この空気も久し振りだ」
それでも、布越しのくぐもった声は嬉しそうだった。なんとしてでもと無理矢理発注して着けさせた防寒マスクに、更にもこもこのマフラーを顔半分まで引き上げたヒラキは、車から降りるなりそう言った。
「寒くねえか」
「大丈夫。何枚着てると思ってるの? 暑いぐらいだよ」
「足元滑るぞ」
「スパイクついてるから。でも気をつけるね」
ありがとう、と笑って彼は雪がうっすらと積もった階段を登っていく。足取りがしっかりしたものであることを確認したキンバリーもまた、その後ろについていった。
「建物残っててほんと良かったよ」
「だな。特に荒らされてもねえのもラッキーだ」
「あ、自動ドア開いた。魔導装置も生きてるっぽい」
「じゃあエレベーター使うか」
自動ドアが招き入れた先は人気のないエントランスだ。内乱や暴動が相当あったはずなのだが、奇跡的にもこの建物は生きている。暖房も動いているのか、ほんの少し空気が暖かい。
歩くたびにうっすらと埃を舞い上げながら、奥の居住者用エレベーターへ向かう。キンちゃん、と視線で促されたので、持ってきていたカードキーをかざすと、軽やかな音ともにボタンが淡く点灯して扉が開いた。開いた先に死体があるわけでもない。特に問題はなさそうだ。
「……途中で止まったりしないよね」
「そんときはそんときだ」
乗り込んで扉を閉めた途端、不穏なことを呟く相手の肩に手を回す。
『——ただいまの外気温は氷点下一度。同盟軍の侵攻報告はなし——』
「わ、びっくりした。そういえばこんなアナウンスあったな」
突然の機械音声にその肩が震えた。すっかり忘れていたらしい。
「まだやってるんだ」
「エレベーターに組み込まれてんじゃねえの。情報は更新されてねえみたいだが」
「今思うとだいぶ多機能な将官用の居住施設だ……」
しみじみとした呟きに停止を告げるアナウンスが被る。その通りにやがて止まった機械の箱は、ゆっくりと重たい扉を開けた。
『到着しました。おかえりなさい』
「うん、ただいま」
小さく呟かれた返事は、白く染まって空気に溶ける。
数年ぶりの家路を踏み出した彼の後ろを、キンバリーはただついていった。
帝国の中を徘徊する機械や変異体があらかた駆除され、一般の住人達の立ち入りが解禁されたとスウィフトから聞き、それなら残っている荷物を回収しようという話になったのが先週だ。そこから超特急で冬服を仕立てさらに車を用意し、燃えさしになった帝国の市街を見下ろしながらやってきたのが、かつてのヒラキの家だった。
所々灯りが切れかけて点滅していたりはするが、それでも記憶している廊下とはほとんど変わりがない。幸運にも厄災の戦火を免れたようだ。
「キンちゃん」
開けて、という視線に応えて再びカードキーをかざす。
「……よくよく考えたら何で俺の家の鍵持ってるの?」
「企業秘密ってやつ。ほらどーぞ」
鍵の開く音とともに向けられる視線をあえて躱しながら、キンバリーは扉を押し開けた。
——部屋の中は、数年前と何一つ変わっていなかった。モノトーンの室内、明かり取りの窓から差し込む雪空の淡い光が、舞い上がる埃に当たりきらきらと反射しているその様は、まるで室内でも細雪が降っているようだ。だが以前と変わった箇所はそれぐらいで、こぢんまりとしたキッチンも、奥の本棚も、ベッドも、そして少し散らかった服も、そのままだった。
「わ、やだな、あの日出たまんまだ」
恥ずかしいからあんまり見ないでね、と言いながら、部屋の主もゆっくりと中に入ってくる。
「あのあたり一週間ほとんど帰ってこれなくて、全然洗濯とか掃除とかしてなかったんだよ。ちなみにこれ言い訳」
「言い訳なんてしなくても汚くねえよ」
「俺にとっては気になるの!」
喋りながらもソファーの上のクッションを整え、埃を払い、そしてキッチンの蛇口が生きているかどうかを確認している様子は、長期間家を空けてしまった人間のそれだ。たしかこいつが任務で出かけている隙を狙って潜り込んだ時もそうだった、帰ってきた途端にプリプリぶつぶつ怒りながら、こうして手の届くところを掃除したりしていた。
「缶詰はまだ食べられそうだね。勿体ないから持って帰ろう」
食料庫を開けていたヒラキは言った。それにつられて、キンバリーもまたキッチンへ入る。すると、前はちらほら空きがあった酒の棚がほとんど埋まっているのが見えた。
「酒もたくさんあんじゃねえか」
「上の人たちからの貰い物だからいいやつだよ。飲むタイミングなくてさ、どんどん溜まっちゃった」
なるほどそういうやつか、とかつての『友人関係』を思い出す。あの顔ぶれならこの程度はした金にすぎない。きっと、最後の身勝手な作戦のせめてもの餞別として残していったのだろう。
好きなの持ってってと言われたので、遠慮なくそれなりに飲めそうかつ高そうな瓶を抜いていく。部屋を綺麗に片付けるにはそれなりの日数がかかかるだろうから、今は値が張りそうなものだけ回収して、後日また残りを取りに来ればいい。
ほくほく顔でキッチンから出てきたら、ヒラキはヒラキで上の本棚を漁っているようだった。ベッドの上に何冊か散らばっている。
「何持って帰るんだ」
「昔読んでた本と、続きが気になってた小説」
「あーこれか。完結したぞ」
「えっほんと!?」
「まだどっかに売ってんだろ、多分」
今度買いに行こうと言ったら、ふと本を抜き出す手が止まった。そのままきゅっと握られる。
「なんだ、どうした」
「随分時間が経ったんだなって。そう思ったらなんだろうね、ちょっと寂しくなった。家はあるし、ここも家なのにさ、不思議だよね」
向けられる笑顔はいつものものだ。だが、僅かに陰りがある。具合は悪くなさそうだが、目元の蔭が少し気になった。
「……帰るか? また明日来りゃいい」
「そこまでじゃないよ。ホームシックが遅れてきただけ」
それにしたって遅すぎだけどさ、なんて言いながら、ヒラキはまた視線を本棚に戻す。
「何もかも懐かしいけど、絶対に戻れない場所ってあるでしょ。それが時間差でごちゃごちゃになってるんだと思う。ボケッとしてた分体感違うから」
「……」
キンバリーは黙った。帝国時代の家に執着などはないか、遙か昔に親と暮らしたあの場所や、今三人で住んでいる場所がいきなり過去の物になったとしたら、きっと同じように戸惑うかもしれない、と思ったからだ。ヒラキは今それを——遣り場のない、どうしようもない寂しさを味わっているのだろう。
「……オレが、オレとエトワールがいんだろ」
キンバリーは軽く握られた手に自分のそれを重ねる。
「うまく言えねえけど、三人で取り返そう。すっ飛ばしちまった分」
「うん、……ありがとう」
防寒具に覆われて、いつもよりもこもこした身体を引き寄せ抱き締める。
いつの間にか雪は止んでいる。窓から差し込んだ柔らかい陽光が、長い長い冬の終わりを告げていた。