モブ、えらいことに遭遇する
黒渦団のおしごとのはなし
――えらいことになってしまった。
落ち着きなく左右に視線を遣る。見慣れない木造の内装に古ぼけたランプ、揺れる仄暗い光に照らされるのは、広い空間を仕切る鉄格子と、自分と同じように不安な表情を浮かべている見慣れない人間たちだった。所狭しと並び、座らせられた彼らは全員男だったが、その服装は様々だ。船乗りと思しき者やただそこらを歩いていただろう一般人、果ては物乞いまでがこの場に密集している。彼らはほぼ全員、何が起きているか解らない様子だった。
もちろん自分だってわからない。一仕事終わったからと酒場に行き、そこで気のいい誰かと落ち合って話が弾んで、盛り上がるにつれ酒も進み、お代わりを頼んだあたりまでは記憶があるが、そこから急にこの場所に飛んでいる。きっと酔い潰れでもしたのだろうが、それにしたって宿屋でもなく、酒場の床でもなく、リムサ・ロミンサの路上でもないのは解せない。
「どうしよ……」
心中の不安が言葉になって漏れたその瞬間だった。
部屋全体が大きく軋み、そして傾く。外から聞こえてくるのはダミ声の「出航」という声だ。そしてゆっくり、ゆっくりと身体が慣性に押され、二日酔いのめまいに紛れていた揺れが――とても身に覚えのある揺れが大きくなる。
「こ、これって」
「海……の上……?」
「おいおいおい嘘だろ」
動揺が広がる。それも当然だ、リムサの人間であればすぐに解っただろう。
――ここは船の上だ。知らぬ間に船に乗せられている。
「ど、どうすんだこれ」
「どうしようね」
「わっ」
ぽつりと零した独り言に返事があり、思わず視線を右にやると、そこには自分と同じように目の下に隈をつくった黒髪のミッドランダーの男がいた。背中を丸め、胡座をかいている様子は明らかにくたびれている。
「あ、ごめんいきなり。聞こえたもんだからつい返事しちゃった」
「いや……」
服装からして普通の市民だ。だが、えへ、と締まりなく笑うその表情には、他の人間達にあるような緊迫した色はない。どこか諦めにも似た空気が漂っている。それがなんとなく、周囲とちぐはぐで目を引いた。
「お兄さんここに来たときのこと覚えてない?」
「おれはその、えっと酒場で酒飲んでて……」
「酔っ払っちゃって起きたらここにいた?」
全くその通りだったので頷いた。相手は「俺もそんなかんじ」とまた笑った。
「お兄さん船乗りさん? 俺ヴィクセン」
「あ、うん、そう、新米だけど……」
日付感覚が合っていたらつい昨日、初めての航海が終わったばかりである。自分の名前と一緒に正直にそう伝えたら、彼は――ヴィクセンは「そっか」と言った。
「えらいね」
「なんで」
「ちゃんと帰ってきてるじゃん。最初の航海って生きて帰ってくるのが半々ぐらいだって聞くよ」
「それはそうだけど近場だったから」
なんだか面映ゆい気持ちになって、ついつい視線を逸らしてしまった。
調子がつかめない。そもそも今この状態でそんな呑気な話をしている場合ではないのだが、なぜか話に乗ってもいいかなという気持ちになってしまう。
「えっと、で、どうしよう」
好奇心と興味がまぜこぜになったような視線を真正面から受け止められず、視線を逸らしたまま話を続ける。
「うーん……ここが陸の上なら考えようもあるけど、船の上ならどうしようもないんじゃない」
その言葉を肯定するように、ぎぎぎと部屋全体が軋んで傾く。部屋の男どもも一緒に傾き、ついでにヴィクセンも「おとと」と揺れた。
「おっとごめん」
「いや大丈夫」
よっかかってきた身体を波の揺れに乗じて押し戻しつつ行きすぎないように肩を掴む。船の揺れに慣れていないのかしばらくよろめいていたが、しばらくして手にかかる力が小さくなった。
「ごめんごめん」
「ううん大丈夫」
「あんまり船慣れてなくてさ。……でさっきの続きなんだけど」
「あっああ」
「逃げられないんならせめてどうなってるのか知っとくのがいいと思うんだよな。明日の朝になるまで待ってみようよ」
それまでは体力温存、と狭いスペースで膝を抱えた彼は、膝頭に額を乗っける。
「お兄さんも寝といた方がいいよ。何させられるか解ったもんじゃない」
なんと驚いたことにそのまま寝てしまうつもりのようだ。ただのくたびれた人に見えるのだが、こんな状態で寝ようとできるのは、もしかしたら中身はとんでもない剛の者――なのかもしれない。いやそうでない気も十分にするが。
「それじゃおやすみ」
「お、おお、おやすみ」
顔が伏せられる。それからしばらくも経たないうちに、すこ、すこ、という音が聞こえてきた。
(ほんとに寝た)
ただこの男の言うことも一理ある。どうなるか解らない以上、安全なうちに寝られるだけ寝ていた方がいい。
こんなに狭いところでなんとか寝るのは酒場の椅子で寝落ちした時以来である。ついこの前まで乗っていた船すらもうすこしスペースは貰えた。明日は全身がえらいことになっているに違いない。
待ち受ける未来にげんなりしながら、寝こけている彼を見習い何とかいい体勢を探して目を瞑った。
***
人間どんな環境でも寝ようと思えば寝られるらしい。
だが、記憶には残らないものの嫌な夢を見たといううっすら嫌な感触と、昨夜からの想像を裏切らずに固まってしまった身体が起き抜けに出迎えてくれて気分は最悪だった。
「あ、起きた? おはよう」
「ひょ」
起き抜けにすぐそばから声が聞こえてきてさほど大きくない心臓が縮み上がった。ショボショボした目をなんとか開きつつ声のした方を見ると、そこには昨日と変わらない曖昧な笑顔でこちらを見ているヴィクセンがいた。
「寝られた?」
「なんとか……」
「俺も身体がっちがち」
やはり彼にもキツかったのか、えへへと力の無い笑いが届く。他にも軽い呻き声があちらこちらから聞こえてきた。
「ちょっと騒がしくなってきたよ」
言われて視線を遣った先にあるのは、昨日からまったく開く気配を見せない扉だ。昨晩何人か挑戦していたのを見たが、外からがっちり固められているのかびくともしていなかった。しかし確かに外からはざわざわと人の気配がする。
「そろそろ何かあるかもね」
ヴィクセンの言葉が現実になったのはその直後のことだった。
がちゃがちゃと騒々しい音が扉を隔てた向こう側から聞こえてくる。それまでさざなみのようにひそひそとなされていた会話が、波が引いていくように静かになっていく。
そしてついに、扉の向こうの地面に重い何かが落ちたと思ったら、耳障りな軋みを上げてゆっくりと開いた。
「起きてんな」
差し込んだ光に目がぎゅっとすぼんだと同時、酒に焼けた声が聞こえた。目を瞬かせながらなんとか光に慣れさせると、視界に現れたのは入り口を塞がんばかりにでかいルガディンだった。粗野、粗暴、粗忽を全て詰め込んだような外見をしている。童話の世界から抜け出してきたような酒のサカになりそうな姿だが、残念ながらここは現実であり、そして童話の中で酷い目に遭う側の人間は間違いなく自分達だ。
緊張した空気にどことなく満足げなルガディン族の男は、あまり手入れのされていないあごひげを撫でると「ふん」と唸る。
「今回のはなかなかいいな。買い手は?」
「島にいるって連絡がさっきありました」
ルガディン族の男の問いに答えたのは、その片足に隠れる大きさのララフェル族の男だった。部下の船員であることはすぐにわかった。
「動けそうなのばっかり集めときましたよ」
「でかした」
話の内容を聞くに嫌な予感しかしない。きっとこれは噂に聞く人狩りだ。裏稼業の船に乗せるための人員や、それこそ奴隷を得るための常套手段だと船乗りの先輩に聞いたことがある。やらされることは様々だが、行き着く先は全て同じだとも聞く。ずるずると取り込まれて、昼日中の港は一生拝めなくなるのだ。
(どうにかして逃げないと)
自分の血の気が引く音なんて初めて聞いた。だがどうやって逃げればいいのか見当がつかない。船の上ならどうしようもないんじゃない、という昨日のヴィクセンの一言が頭をよぎり、焦りが絶望にじわじわと変わっていく。
「あのー」
だがその嫌な流れを文字通り断ち切ったのは、隣から突然上がった声だった。穏やかで起伏のない、場にそぐわない呑気な声を上げたのは、黒髪のくたびれたミッドランダーだ。
さほど大きくもないのに、広がりつつあった動揺のざわめきからは明らかに浮いていたそれは、周囲の面々だけではなくしっかりとルガディンの耳に届いたらしい。
「なんだ?」
「俺たちってこれからどうなるんですか?」
何されるか解ったもんじゃないからやめろと肘でつついたが、ヴィクセンはこちらに視線をちょっとやっただけだった。
「鈍いやつもいたもんだな」
ガハハという笑い声が上から降ってくる。
「おまえらは売られるんだよ」
「どこに?」
「聞いてどうすんだ」
「誰が買うんですか?」
「んだァ? しつけえな」
野蛮な視線が向けられる。だからやめろってと服を引っ張るが、ヴィクセンは「だって知りたくない?」とこちらに話を振ってきた。
「もう俺らまともな人生送れないかもしれないんだよ」
「んなこと言うなって」
「そんならせめて冥土の土産に知っときたいじゃん」
「だからさ」
知っときたいやつなんてそうそういないと思うし、なぜか死ぬことになっているのは縁起でも無いからやめてほしい。そしてできればこちらに話を振らないでほしい。
だが、ルガディン族の男はさほど気分を害していないようだった。これから入る金のおかげでよほど機嫌がいいのだろう。
「なんか愉快なやつだなお前。まあわからんでもねえから教えてやるよ、ウルダハに出入りしてる奴隷商人――」
「――聞いた?」
またわけのわからんことを言い出したと思ったが、その一言はこちらに向けられていなかった。耳に手を当てているヴィクセンに、言葉を遮られて一瞬呆気にとられていたルガディンが鼻に皺を寄せる。
「あんだあ?」
「うん、聞いたね。いいよー降りてきて」
瞬間船が揺れた。突然の揺れに尻餅を着いてしまい、目の前の巨躯も流石にバランスを崩す。
その向こうに見えたのは遙かな遠くまで広がる地平線――ではなく、赤と黒の見慣れた制服に身を包んだ、これまた小山のようなルガディン族だった。
「ば」
「――ォォォオオオッ!!」
ひげ面が何かを言う前に、新たに現れた方が襟首を掴んで引き倒す。足元のララフェルはかいくぐって逃げかけたところで、部屋の外からすっ飛んできた岩の塊が直撃し、「ふぎゃ」という情けない声を上げて壁の向こうへと消えていく。どうやらこのルガディン以外にも予期せぬ闖入者がいるらしく、外からは慌ただしい足音や何かが壊れる音、そして野太い悲鳴が聞こえてきていた。
「ご無事ですか隊長!」
「身体バッキバキでそれ以外は無傷ー」
まるでついていけていない自分と他の皆をよそに、ヴィクセンは「よっこいしょ」と今までと全く同じように立ち上がる。そして投げ渡された何かを片手で握り潰した。
硬質な何かが割れる軽やかな音と共に視界に緑が広がる。それまで真っ黒だった彼の髪は、瞬きの間に深い緑と茶に変わっていた。
「その色!」
「あ、知ってる? プリズム使っといてよかったな」
先程とまるで変わらない気軽さで、動揺も何も感じさせずに組み伏せられた巨体の方へと歩いていくと、脇から現れたミッドランダーの女性から、ぞろりと長いコートを受け取り慣れた様子で羽織る。
吹き込む風に翻るのはやはり赤と黒。海都を守る者達の色だ。
「どうも、黒渦団です」
「テメェ雌狐ェ!!」
「なんだ、ほんとに俺のこと知ってるじゃん。恥ずかしいからちょっと黙ってて、よっ」
容赦の無い蹴りが頭に入った。鈍い音と共に静かになる。躊躇いのなさに他にもいくつか息を呑む音が聞こえた。
「すみません、お騒がせしました。そして遅くなってしまって申し訳ありません」
こちらへ向き直ったヴィクセンは丁寧に頭を下げる。
「皆さんのことはリムサまでしっかりと送り届けますのでご安心ください。……あ、安全が確認できたらお知らせしますので、それまではここにいてくださいね」
相変わらずつかみ所の無い笑顔を残し、丁寧に縛り上げられたルガディンとともに船室を出て行く。
「……お、囮捜査ってほんとにあるんだあ……」
ぽそりと聞こえてきただれかの呟きに思わず頷いてしまった。
***
それからの日常は瞬く間に過ぎていった。
宣言通り無事にリムサ・ロミンサに送り届けられたあと、ちょっとした事情聴取を受けたらそれでこの件はおしまいだった。しばらく乗る船を吟味する癖がついたのと酒場で思い切って酒が飲めなくなった程度で、あっという間に日常が戻ってきた。喉元過ぎればなんとやらとはよく言ったものである。
「ッはぁー……」
そして今日も、何度目かの短めの航海を終わらせ、ひそやかな祝杯を挙げる。
遠洋よりは定期便の方が性に合ってるかもしれない、などとつらつら考えながらグラスを傾けていたところ、隣に誰かが座る気配がした。
「お兄さんじゃん。久しぶり」
あやうく口に含んだ酒を噴射するところだった。
なんとか飲み下して慌てて目をやると、そこに座っていたのは忘れようにも忘れられないあの笑顔だった。
「ヴィクセン、さん」
「ヴィクセンでいいよ。俺いま仕事終わりだし」
軽い酒を注文しつつ、ヴィクセンは挨拶のつもりなのかひらひらと手を振る。
「あのあとどうだった? ちゃんとお仕事できてる?」
「え、あ、うん、まあ、それなりに」
「よかった、心配してたんだ」
グラスを受け取ったヴィクセンは一気に飲み干すと、好奇心をそのまま写し取ったような深い緑の瞳をこちらに向けてくる。
「せっかくだからもう少しお話ししない? 俺お兄さんの最近の話聞きたいな」
ほんの少し掠れた声が耳を擽る。
いいよ、と答えたその瞬間、あのルガディンが言っていた雌狐 という単語とともに一抹の不安が脳裏をよぎったが、酒を数口飲んだ頃にはいずこかへと押し流されていた。