しずかのひつじ

リブクラ / pixiv

 彼は静かだ。
 今までも積極的にしゃべるようなタイプではなかったが、今は輪をかけて静かだった。与えられた部屋の床、お気に入りのタオルケットの上に座っている彼は、朝から晩まで、話しかけても何もしゃべらない。ただ、じっとその蒼い瞳でリーブを見上げてくるだけだ。
 きゅっと引き結ばれた口が開くのは、ご飯を食べている時を除いてほとんどない。仕事の合間を縫ってできるだけ顔を出しているリーブも、普段の世話を担当している職員すらも、彼が食事以外で口を開けているところを見たことがなかった。
「おはようございます、クラウドさん」
 そして今日も、彼は一言も喋らなかった。
 前は少し照れの入った顔で「おはよう」と返してくれた挨拶にも、その唇が開くことはなかった。ただじっと、クラウドはリーブの顔を見つめる。ただそれだけだ。
 まっすぐ向けられる瞳が、自分の敵なのかそれとも味方なのか、見極めようとしているように見えたので、リーブは床にひざをついた。座り続ける彼のため、せめて身体を痛めないようにと敷いた柔らかいマットへひざを埋めて、その瞳と目線を合わせる。
「よく眠れましたか?」
「……」
「お腹空いたでしょう。もう少し待っていてくださいね」
「……」
 だが、クラウドは何も言わない。おびえた様子を見せていないだけましというものか、とリーブは溜め息をつくと、マットレスから立ち上がった。
 最初はこうはいかなかった。目を合わせることすらしてくれなかった頃のことを思えば、僅かずつでも慣れてきてくれているのだろう。部屋の隅にうずくまり、ただ獣のように震えていた一週間前に比べたら、十分な進歩だ。
 それでもまだ、人間らしいことは——かつて彼ができていたことは、何一つできるようになっていない。
 リーブは入れ違いで食事を持ってきた職員を部屋の中に通してやる。
「どうですか?」
「大丈夫そうですよ。よろしくお願いします」
「了解です。……こんにちは、クラウドさん。ご飯食べましょうか。今日はコスタからおいしい果物が来てますよ」
「……」
 クラウドが怯えず、職員の差し出す食事をそのまま食べ始めたのを見届けてから、リーブはその部屋を後にした。

 ——彼が何もかもをなくしてしまった原因は、とある農園にあった。
 仕事の最中、突然姿を消したクラウドを捜索すること数ヶ月。とある僻地の農園の中で保護した時、クラウドはそこで家畜として扱われていた。小屋の中の大きなケージ、その隅に敷かれたタオルケットの上で、クラウドはうずくまっていた。
 何をされたのか、そして何が目的だったのかははその農園の主に聴取を行っているところだが、保護されたクラウドは、言葉も、文字も、そして自分が人間であることすら全て忘れていた。かつての主治医によれば、口にすることもためらわれるようなことをされたに違いないとのことだったが、具体的な内容は何一つわかっていない。

 仕事を終え、自分の部屋に戻る前に、再度リーブはクラウドの部屋に寄った。そっと扉を開け、明かりの落とされた部屋の中に入る。
 クラウドは、ベッドの上ではなく、床の上に敷いたタオルケットの上で眠っていた。緩く握った手を胸元に抱え込むようにしているその寝相は前から変わっていない。
 だが、ベッドの上で眠ってくれないのは変わらずだ。戻ってきてくれた彼は、ベッドをひどく嫌がるのだ。一度リーブや、他の職員達がベッドの上に載せようとしたのだが、激しく嫌がって逃げ出してしまってからずっと、この部屋のベッドは使われていない。
「……クラウドさん」
 穏やかな寝息をたてているクラウドの上にかがみ込むと、リーブは優しくその前髪を梳いてやる。温もりを感じたのか、クラウドがわずかにすり寄ってきたので、今度は少しだけ力を込めて撫でた。起きている間は手をふれようものなら、怯えて部屋の隅に逃げてしまうのだが、寝ている間は逃げず、こうして素直に撫でられてくれるのが、とても嬉しかった。
「クラウドさん……クラウドさん」
 髪から頬へ、そして唇へ手を滑らせる。前よりもほんの僅かに日焼けした肌が伝えてくる温もりがたまらなく愛おしい。抱き締めたいしキスもしたい、名前を呼んで、呼ばれたい。だが、それはまだまだ叶わぬ夢だ。
 リーブはずれてしまっていたタオルケットを直してやると、ふかふかのマットレスから立ち上がる。
 明日こそは僅かに良くなってくれるはずだと、そう心の中で信じながら、朝と同じようにその薄暗い部屋を静かに出た。

三度の飯が好き

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