地底にて

ロソクラ / pixiv ※流血・捕食表現あり

 部屋に入った途端、衣擦れの音が聞こえた。
 起きているのかと声を掛けたら、返事の代わりに低い呻き声が聞こえた。どうしたのかと寝床をのぞき込むと、その中に寝かされている彼は何やら辛そうにうずくまろうとしているのが、ブランケット越しでもわかった。
「どこか痛いの?」
 落ちないようにと付けさせた柵を下ろすと、ロッソは寝台に腰掛けた。言葉としての返事がないのに苛立ち毛布を剥ぎ取れば、ベッドの上の彼は、その手を——手だったものを必死に伸ばして、自分の腹を抱え込んでいる。
「おなか?」
 わずかな頷きが返った。
 なるほどそういうことか、と彼女は先ほどまでいた地上の天気を思い出す。
 どんよりと重い雲が覆った空、そしてしとしとと地面を濡らす大きな雨粒は、時として、この小さな生き物を苦しめるのだ。ロッソにとっては大好きな天気であっても、そして彼自身が地下深くにいたとしても、雨は彼にとって、あまりよくない影響をあたえるもののようだった。
「ほら、おいで」
 ロッソは彼の体の下に手を差し入れると、そっと抱き起こして膝に乗せる。本当は大人で、ロッソよりも少し大きいはずなのだが、今の彼は彼女一人で抱えることができてしまうほどに小さかった。
 苦しげに眉を寄せる顔を見ながら、ロッソは彼に着せている白い検査着の下から手を滑り込ませ、先ほど押さえようとしていたところを撫でてやった。彼女の手のひらの下には、昔とあるソルジャーに付けられた古い古い傷跡がある。その傷が、雨になるたび、地下の恩恵となった彼に過去を思い出させようとうずくのだ。
 ロッソにとって、それは我慢がならないことだった。いっそのことその場所を抉り出してやりたかったが、四肢を失い、常時再生で体力を消耗している彼にとっては、体の中心、人間にとっては急所となる場所を大きく抉るのは、この地下にようやく届いた陽の光にも等しい恩寵を永遠に失うことと同義だった。それに、何よりこの傷は、彼を恩寵たらしめるきっかけになったものだ。聖痕などと呼ぶ輩もいるほどには、彼の『慈母』たる象徴になりつつあった。
 わずかな苛立ちを押さえ込みながら、彼女は極力優しく、彼の腹を撫でる。こわばっていた体から次第に力が抜け、ロッソにほとんど体を預けてしまうようになると、彼女はぴたりと手を止めた。
「……?」
 ロッソの胸に、まるで赤子のように顔を埋めていた彼が顔を上げ、訝しげな目線をよこす。
 だがロッソは何もしない。何もしないで、ただ彼の星の光を湛える瞳を見つめているだけだ。
「……ろ、ロッソ」
「なあに?」
 怯え混じりの声に優しく答えてやる。しかし、彼は続きを口にすることを躊躇っているようだった。恥ずかしそうにもぞもぞと体を動かしている。
「言ってくれないとわからないわ」
 本当は知っているのだが、ロッソはあえて言わない。こうやって、彼がためらい、そして恥ずかしがっている様を見るのが、彼女はとても好きなのだ。普段は無気力で、無感情で、時たまうめき声を上げるだけの彼が、ロッソにだけそういった様子を見せてくれるというのが、たまらなく良かった。
「なにかしてほしいの?」
 子供に言い聞かせるように、ゆっくりと優しく聞く。彼が本当はこうやって聞いてほしくないことを、ロッソはよく知っていた。だが、飽くまで彼女はこの態度を貫いた。そのせいか、彼はこの地下に来てから、その態度を恐ろしく軟化させた。
「ロッソ、……ロッソ」
 いや——退行した、と言うべきだろうか。
「なあに」
 今にも泣き出しそうな星の色の瞳をのぞき込む。この地下の一番奥で輝き続ける光のように、彼の目はとても美しく、そしてとても、
(おいしそう)
 内からムクムクと湧き上がってくる衝動をこらえて、彼女は未だ何も言えていない彼の、そのふわふわとした金髪を梳いてやる。
「どうしてほしいの?」
 あぅ、と彼の口から哀れな声が漏れる。少し前まで、何かわがままを言ったらすぐに痛めつけてきたその記憶は、彼からすっかり積極性というものを奪ってしまっていた。何か言わないといけない、でも何か言うと殴られるとでも思っているのか、まるで極上のゼリーのような瞳が潤む。
 半ばまでしかない手が動き、ロッソに伸ばされた。何もしないロッソのその手を掴もうとしているのか、じたじたともどかしく動いているが、しかし、あるはずのものが無くなってしまっている彼の手では、そんなことができるはずもなく、ただむなしく包帯に覆われたその先が空を掻くだけだ。
「ぁ、あ、ぅ——」
 唇がわななき、みるみるうちにかさを増した涙が、緩やかなカーブを描く目の縁からこぼれ落ちる。だがその寸前、朱に彩られた爪がその滴を受け止めた。
「あら、ふふ、泣かないで」
 ついに、ひっ、ひっと小さな嗚咽を漏らし始めたを抱え直すと、ロッソはその額に軽く唇を寄せる。震える体を抱きしめてあやしてやると、ぽろぽろとこぼれる涙を舌で掬い取る。彼の涙はさながら甘露だ。ひとしずく舌に乗せただけで、途端全身にやわらかい電流が走る。
「意地悪してごめんなさいね。あんまりにもかわいいものだから」
「ぅ、っろっそ、ロッソ」
「ええ、大丈夫、何にもしないわ。良い子」
 撫でてほしかったのよねと笑いながら、ロッソはまた、彼の過去を未だ繋ぎ続ける傷跡を撫で始めた。時折揺すってあやしてやれば、とめどなく流れていた涙も止まり、呼吸も落ち着きを取り戻す。
 しばらくして、彼の体から完全に力が抜けた。だが、ロッソは寝床に戻さず、その腕の中に収めたまま、眠る彼のその頬に己のそれを擦り寄せる。
「かわいい子」
 頬に残った涙の筋を、彼女の真っ赤な舌がゆっくりと辿る。
 そして、まぶたにキスを落とし、朱の女は呟いた。
「——ほんと、食べちゃいたいくらい」

三度の飯が好き

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