雛の庭

ゴドクラ / pixiv ※暴力表現あり

「雛、雛や」
 声をかけると、控えめな衣擦れの音が聞こえた。錠を開け中に入ると、仄暗い、しかし温かみを感じる灯りの元で、鮮やかな赤色が動くのが目端に映った。
「雛や、そこにいたか」
「ゴドー」
「待っておれ、すぐそちらにゆく」
 できうる限り落ち着きはらった様子を取り繕いながら、履物を脱ぎ座敷へ上がる。手入れの行き届いた畳を踏みしめその赤色へ近づくと、ゴドーはそっと膝をついた。
「お雛」
 声がぐんと近くなったことに気がついたのか、その赤色は——艶やかな着物を纏った人間は、黒い紗に覆われた瞳を彼に向ける。
「ゴドー、早く取って」
「わかったわかった」
 ふわふわとした金髪を擦り付けてくる「雛」を宥めながら、ゴドーは丁寧に、そして優しい手つきでその紗を取り払う。上質な絹の下から零れるように現れたのは、蒼い宝玉にも似た瞳だった。ゴドー以外にはだれにも見ることがかなわない、うつくしい至高の宝玉だ。
 きらめく双眸がゴドーを映した途端、それまでほとんど動きを見せていなかった表情が、花開くように明るくなった。
「ゴドー」
「しばらく空けてしまったな。すまん」
「いいんだ。シェイクが遊んでくれたから、寂しくなかった」
 おいで、と腕を広げると、その美しい彼はぽふんと素直に飛び込んでくる。手入れの行き届いた金髪に指を埋め、撫でてやりながら、ゴドーはその身体を抱きしめた。

***
 その男を——雛を飼い始めたのは二年ほど前のことになる。
 きっかけはよく覚えていない。ただ、娘が連れて来たときに、機を見て下に連れ込んだ。ただそれだけである。
 雛は最初、それは大いに戸惑った。そして抜け出そうとした。だが、武器もなくマテリアもない状態で、かつ、五強聖が常に目を光らせている状況では、その腕を持ってしてもかなわなかったらしい。
 だが、いつまでも気を張っているわけにはいかない。そう判断したゴドーは、五強に端的な命を下した。あれの腱を切れ、と。
 座敷牢の中、歩くことすらままならず、ただ人の手を借りて生きることしかできなくなった男は、みるみるうちに抗う力を、気力をなくし、そしてゴドーの雛になった。ゴドーの言うことなら何でも聞く。ゴドーがしろと言ったことは何でもする。まさに雛だった。
「口を」
 開けろ、と最後まで言わずとも、雛はその口を開ける。匙に載せた粥を含ませてやったら、また自ら口を開け、そして舌さえ伸ばしてゴドーの与える餌を迎え入れる。
「美味いか」
「うん」
「そうか」
「もっと」
「ああ、ほれ」
 強請られるがままに粥を与える。雛はそれを言われたとおりに咀嚼し飲み込む。もっとと強請るその様は、かつて世を救った者とは思えないほどに儚く頼りなかった。
「ゴドー?」
 黙っていたのが気になったのか、雛がおずおずとゴドーの着物の裾を握った。おおすまん、とまた匙を差し出してやると、彼はまた表情に滲んだ不安を笑顔に変え、差し出される餌を啄む。今日は食欲があるのか、全て食べてしまうのにさほど時間はかからなかった。
「足りなくないか」
「だいじょうぶ」
「そうか」
 ゴドーは器と匙を漆の盆に戻すと向こうへ押しやる。雛の口を拭いてやったら、艶やかな紅が少し滲んだ。
「ああ、滲んでしまったな」
 取ってしまおうか、とゴドーはその唇を塞ぐ。ん、と雛がわずかに鳴いた。口づけを繰り返しながらゆっくりと身体を横たえさせると、わずかに熱を帯びた雛の瞳が、期待と不安の綯い交ぜになった色の中にゴドーを映す。
 ——彼は雛だった。ゴドーに従い、ゴドーを求め、そして縋る雛だった。一人になるととたんに死んでしまうゴドーの雛だった。
「お雛」
 雛は何も言わなかった。ただ恥じらうように目を伏せた。
「良いか」
「……いい、です」
 ゴドーは緋色の着物を丁寧に暴いていく。時折震える白い肢体が、床に広がる着物に映えた。
「雛、雛や」
 はい、と細く答える雛は、ただゴドーだけを見ていた。

三度の飯が好き

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