研究所のクラウドちゃん / セフィクラ / 文庫ページメーカー
施設の研究員達は、自分達が扱うそれに関しては情熱と尊重を忘れなかった。
分野が分野であるせいからかもしれないが、WRO の研究部門にしては珍しく——と言って良いのかどうかは他の部門での勤務経験が無いためわからないが——良心的であり、人情や倫理というものを忘れていない部門であると自負していた。その最たるものがこの毎日の「挨拶」だ。別に明文化されている決まりではないが、彼らは毎日、彼らの研究対象に(実験で隔離されていなければ、だが)挨拶を欠かさなかった。出勤したらまず対象のケージに寄り、様子を見ては、各々のオフィスや職場に行くのだ。
彼もまた、出勤前にケージに寄った。おそらく彼と同様挨拶に行っていたらしい同僚とすれ違いながら、施設の奥を目指す。ケージがある部屋はその住人を極力刺激せず、驚かせないようにという配慮の元、施設の一番奥にあった。静かで落ち着いた、そして無機質な白い廊下を突き当たりまで進んでようやく、目的の扉はあった。
それの見た目こそはヒトの青年だが、そもそもの身体のつくりが根本的にヒトとは異なってしまっていた。基本的な内臓や身体の部位と言った大きな『部品』は同じなのだが、その素材——組織を成す細胞が、全く別種のものになってしまっているのだ。
そのヒトならざる細胞がもたらした長命と、長い生の間に受けてきた実験により、彼は人間の言葉をすっかり忘れてしまっていた。こちらが意図していることや話している内容は、彼の持つ細胞の機能によって理解できているようではあったが、彼がしてほしいことについては伝えられなくなっていた。昔は特定の人物の名前などは口にできていたようだったが、今の彼は、もう単音しか口にすることができない。
それでも、いやだからこそ、皆は彼を愛し、慈しんだ。そして彼もまた、皆に懐いていた。特殊なガラスの向こう側、穏やかな笑顔を浮かべながら、皆の挨拶をただ見ていた。その腕の中には、この前彼の細胞を継いで生まれたばかりの小さな仔が、タオルケットにくるまれて抱かれている。
「おはよう、ママ。今日はその子?」
かわいいね、と本心から伝えると、彼は——この星のありとあらゆる生物の可能性を秘めた母は、さらに笑った。お披露目のつもりらしい。
「僕はこの前会ったけど、どんどん似てきてるね」
こくこく、と頷き愛しそうに仔の頬を撫でる彼は、まさしくこの星の慈母だった。