ルークラ / pixiv
束の間のうたたねを破ったのは、騒々しい人の声だった。直前まで読んでいた書類が手元にあることをまず確認し、声のする方へと目をやると、先ほどまで誰もいなかったところに、白衣の人間たちが数名群がっている。
騒音の元はどうやらそいつらと、その奥にいる者らしいと判断したルーファウスは、寝起きでわずかに倦怠感の残る体を椅子から引き剥がした。
「騒がしいな」
「も、申し訳ありません、今落ち着かせますから」
「落ち着かせる?」
「目が覚めたばかりで、少々混乱しているようで――」
白衣の人間越しに見える、巨大な硝子の棺にも似た容れ物。先ほどまで、星を巡るいのちの色をした液体を湛えていたそこは、何の色も付いていない。ただその中で穏やかに眠っていた男が、隅でガタガタと震えている以外、容れ物の中は空になっていた。
「いやだ、いや、たす、助けて」
白衣の人間たちの手を払いのけながら、男はそう言っていた。彼の怯えた両目に何が映っているのか、何に見えているのか、ルーファウスにはすぐ察しがついた。WROの整った部屋も、倫理を重んじる優秀な研究者達も、今の彼には日の射さない地下室と悪魔のような人間にしか見えていないのだ。
「……君達も医者で研究者なら、対象の過去をきちんと把握しておいたらどうだ。この状況からして、彼がこうならないわけがないだろう」
「は、で、ですが」
「下がりたまえ。私の番犬だ。私が面倒を見る」
白衣達を退かせると、ルーファウスは容れ物の中に入った。わずかに残っていた液体が上等な靴やスーツの裾を濡らしたが、構わず膝をつく。
男はできるだけルーファウスから離れようとしているようだった。まだ満足に動けないのか、中途半端に糸の切れた人形のようにぎこちない動きで、容器に背中を押し付けて震えている。魔晄色の瞳は猫か何かのように細くなっており、少なくとも相手が普段と違う精神状態であることを、如実に示していた。
身体にまとわりついている検査着の下に、ついこの前まであった怪我がないことを確認したルーファウスは、できるだけゆっくりと手を伸ばした。
「ほら、おいで」
「やだ……いやだ」
「風邪を引くぞ」
服が濡れるのも構わずに、払いのけようとした手を逆に掴んで引き寄せる。いっそう悲痛な声が上がったが、頓着せずに抱きしめた。
「いやだ、やだ、たすけ、助けて、やだ……!!」
「大丈夫、大丈夫だ。落ち着け。大丈夫だから」
「なに、なんで、やだ、ザックス、ザックス……!!」
「落ち着け。何もしないから」
背中をぽんぽんと撫でながら、歯の根も合わないほどに震え、かつての親友に助けを求める男を、優しく諭すように落ち着かせる。しばらくして、押しのけようとしていた力がだんだんと弱まり、震えもほとんどなくなったのを感じて顔をのぞき込んだら、気を失ったのかそれとも眠ってしまったのか、男の両目は力なく閉じられていた。
「まったく」
「す、すみません」
へこへこと謝る白衣の後ろ、せわしなく用意されたストレッチャーに、ルーファウスの腕の中から男が移される。運び出されていく男に白衣達がついていき、ルーファウスもまた容れ物から出た。
スーツはすっかり濡れてしまって、ツォンに見られたらきっとこれ見よがしに落胆した溜め息を吐かれるだろう。乾くまではWROから出られないと苦笑して、ルーファウスもまたストレッチャーを追いかけ部屋を出た。
***
WROの施設は改善に改善が重ねられ、各区画はそれぞれの専門施設も凌ごうかという設備が揃っている。ルーファウスが今いる病室もまた、ミッドガルの上層区にあった大きな病院と比較しても遜色がなかった。
「心拍も平常通りですね。もう大丈夫でしょう」
「そうか」
「二、三日様子を見ましょうか」
何かあったら呼んでくださいと言いおいて、前々から世話になっている主治医が部屋を後にする。残されたのはルーファウスと、寝台の上で眠るクラウドだけになった。
(最初はどうなるかと思ったが)
まだわずかに濡れている金髪を指先で弄びながら、三日ほど前の騒動を思い返す。
――資金集めのためのありふれたパーティーになるはずだった一日は、予想に反し火薬と血の臭いにまみれることになった。未だ神羅には敵が多いからと、渋るクラウドを無理矢理連れてきたことが、結果として誰も死なずに済んだことに繋がったともいえる。
だが、突き飛ばされたルーファウスが目にしたものは、タークスに取り押さえられながらも「この怪物め」と喚き散らす主犯と、高級そうな絨毯に真っ赤な染みを広げ、僅かに痙攣しながらただ倒れているクラウドだった。
WROが駆けつけるまで、胸に空いた大きな風穴からこれ以上血が失われないように抑えてやっていた間は、生きた心地がしなかった。何か言葉をかけたような気もするが、それもあまり覚えていない。口から零れた少なくない量の血が、どんどん白くなっていく肌に嫌に映えていたことは、脳裏にこびりついているが、それ以外は目の前からクラウドが消えてしまうかもしれないという恐怖で塗りつぶされ、情けないことにおぼろげにしか覚えていない。
――だが、周囲の尽力もあってクラウドは持ち直した。心臓を半ば吹っ飛ばされても、傷一つない身体でここにいる。
「三日で治るか。番犬にしては、些か高性能に過ぎるな。そう思わないか」
「……この前も申し上げましたが、クラウドさんは人間ですよ。我々神羅にねじ曲げられた人間です」
「人間の枠から若干はみ出ているがな」
いつの間にか入ってきていたリーブは、はあ、と苦い溜め息を吐いた。
「クラウドさんが起きたらちゃんと謝ってください。いつもの皮肉は引っ込めて」
「無論だ。皮肉については善処しよう」
「さっきのようになさったらいいんですよ」
思わず顔を上げたら、かつての部下は渋面から一変して、茶化すような笑みを浮かべていた。
「……見ていたのか?」
「たまたまです」
「さっきといい今といい、気配を消すのがうまいな君は」
「日陰者でしたからね」
ふふふと笑うリーブは、壁に預けていた背中を離す。長居するつもりはないらしい。
「頑張ってください」
「お前に言われるまでもない」
だからさっさと仕事に戻れと追い払うと、今の世界の主はつかみ所のない笑顔のまま病室を出て行く。あんな性格だったかと昔を思い出しながらも、ルーファウスは未だ眠り続けているクラウドの手を握った。ひどく冷たいが生きているし、脈もある。
「君が静かだと暇でしょうがないな」
だから早く起きてくれと、普段の自分では考えられないほど素直な言葉が口から滑り出たことに驚きながらも、彼は力の抜けた指に口付けた。